三浦の散歩道 〈第108回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
神社では「祭礼」が行われます。「祭りの型」について、『若宮神社誌』に、次のように記されています。
「関係者の心身の浄(きよ)め、神霊を迎える為、神職者が祝詞(のりと)を読んで神霊招致の行動をとり、神饌(しんせん)(筆者註=神への供えもの)を献じ、祈願、感謝して神楽舞が行われ、参加者一同会食し、祭りの成功と集団の繁栄を祝う、神輿(みこし)をかついで地域を巡回し、神霊の威力を地域と住民に満たし、無事息災と繁栄を保証してもらうのが多い」とあります。さらに、「祭礼は地域の共同体意識を高め、伝統的文化を伝承させる上で社会的教育的意味は大きい。」とも記されています。「祭り」の語源についても言及され、「まつ」を語源とした動詞で、「神を待ち迎えること」としています。
「十数年前、飯盛にお住まいの高梨信一さんから、若宮神社祭礼の時、飯盛で掲揚する幟について教えて戴いたことがありました。それによりますと、神社に向かって右の幟には「咫尺威霊儼茲在(しせきいれいげんとしてましますがごとし)」と、左側は「千歳崇祀徳維新(せんざいすうしとくこれあらたなり)」で、「偉大なお方がすぐそばにいらっしゃるようで、千年たっても、その徳は尊くあらたかである。」と言うことだそうで、まさに「祭礼」に相応した箴言(しんげん)ではないでしょうか。
その高梨さんは、若宮神社に奉納されてある俳句を書いた絵馬を赤外線写真を使って、判読したということです。「猫の鼻 嗅くやとおもふ 寒さかな」に始
まる二十句以上も判読したのです。その折、絵馬の奉納月日が「明治二十五年一
月日」であることが判明したのです。さらに、この絵馬に「建碑」の銘があったということで、神社の境内に建てられてある、松尾芭蕉の句碑「夕ばれや桜に涼む浪の花」が造立されたのが「明治二十四年冬日」とあることから、絵馬は句碑造立を記念して開かれた句会の時の句であろうと、高梨さんは推察されています。
三浦半島は江戸期の頃より俳句が盛んなようで、「三崎八景」に俳句を折り込んだり、海南神社には芭蕉の句碑以外にも、三句の俳句が詠まれています。さらに、浦賀の東叶神社には「丹(に)よ起(き)丹よ起と帆はし良(ら)寒き入江哉(かな)」(天保癸卯冬=1843年)。岩戸の満願寺には「先(まづ)たのむ椎の木もあり夏木立(こだち) はせを」(慶応二年=1866年)とあり、筆者は浦賀奉行所の与力であった、中島三郎助氏なのです。
他に、長井の荒崎に近い処にある観音堂の境内にも「海士(あま)の屋(や)は小海老にまじるいとどかな」の句碑も見られます。なお、「いとど」とは「こおろぎ」のことです。
このように、芭蕉を慕う三浦の俳人が多く活躍していたのでしょうか。
(つづく)
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