三浦の散歩道 〈第116回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「初声市民センター」の建物の横壁に「矢羽」を型どったレリーフ(浮き彫り)が見られます。その壁の説明文が道路側に掲げられています。それには、「この地は、三浦一族の豪将、和田義盛(1147〜1215)の所領地内ですが、矢作りの伝説のあるところから、矢羽をあらわしてみたものです。」と丁寧に記されています。
以前(一〇六回)にも書きましたが、江戸期の元文三(1738)年に「入江新田村」がつくられました。『新編相模風土記稿』(雄山閣版)によりますと、「古は和田三村に属する入江なり、寛永五(1628)年新墾の事を企(くわだて)元文三年其ノ功成り、同十一月神尾若狭守春英検地して一村とす、和田郷に属せり、江戸より十八里、民戸二」と記されています。市民センター脇の表示板では寛永五年ではなく、宝永五年となっています。八十年も差があります。おそらく計画の考えはあったのでしょうが、「元禄地震」(1703年)をきっかけに計画が実行に移されたのでしょう。
新田がつくられた時に「宮田湊(みなと)」に流れこんでいたと思われる「一番川」を河口に至るまで歩いてみようと思います。
現在、「潮風アリーナ」の横を流れ、国道を越えて「県立三浦臨海高等学校」の正門前を通って、「県営初声シーサイドタウン」の一号棟前を通過して、「入江公園」前に至ります。川に沿っていた道路も、公園を回る形で北側へと右折してしまいました。
「一番川」も、ここに至って「和田」方面から流れ至った「二番川」と呼ばれるような川と合流します。「二番川」と仮に呼んでみる川は「高円坊」方面から流れる「庄司川」の下流と一緒になって、「三浦臨海高校」のグラウンドの北側を流れ、「水門橋」を経て「シーサイドタウン」の横に至り、「一番川」へと合流するのです。
川を越え、海へ至る道はありません。そこには「(仮称)プロパスト三浦計画」と表示があり、その目的として、「宅地分譲、共同住宅、ホテル等の新築」とあり、柵が設けられていて進入はできません。所在地は「入江字一番地」とあり「一三五・四一〇・五三平方メートル」の数字も表示され、いかにも広大な土地が葛の葉などの葉や草に覆われています。この計画が何時なされたのか。いつ完成するのかも知ることはできませんでした。
川はけっして清冽ではありませんが、鴨やサギなどの鳥も眺められ、緑の草々と濁った川に鳥の姿は鮮やかな印象を与えます。
次に川を越え、「矢作」の地へ向かいます。
(つづく)
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