三浦の散歩道 〈第126回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
国道一三四号線の「赤羽根」信号近く、東側に「天養院」へ至る坂道があります。道路沿いの広場は駐車場にもなっているようです。左へ曲がりながらの道筋に、「神奈川県指定重要文化財木造 薬師如来坐像及び両脇侍立像 三軀 昭和五十三年十一月十七日指定」と三行にわたって書かれた説明板が「三浦市教育委員会」の名で、掲示されています。詳細に示されていますので全文をここに写書させて頂きました。
「像高 薬師如来 七四・五センチメートル 日光菩薩 一一〇・五センチメートル 月光菩薩一一二・五センチメートル」と記されたあとに、「この小高い丘のうえに、浄土宗五劫山天養院(鎌倉光明寺末)があります。本堂向かって左側檀上のお厨子の中に、一木造り、彫眼の薬師如来坐像及び脇侍の日光、月光菩薩立像が祀られています。中尊薬師如来は右腕を屈して、胸前に挙げ、左手を膝うえに置いて薬壷を掌に置く、薬師如来の通例の姿をしています。脇侍は、いずれも左右それぞれ異なる方の腕、中尊に対して外側の腕を挙げており、ともに左右の手で棒状のものを握るかのような形をとっています。おそらく、それぞれ日輪、月輪を付した蓮茎を持っていたものと思われます。
三尊の単純な顔だち、抑揚のあまりない三角状につくられた鼻、間のやや離れた両眼、突き出しぎみの口唇などの特徴は、十世紀から十一世紀にかけての東国の地方的な特色があらわれています。また、作域的にもかなり素朴な表現をとっており、頭部と体躯とのバランスや膝幅に比べ上半身が長いというように、均衡を失するところもありますが、体躯の奥行の大きさや膝の豊満さ翻波風の衣文線は、平安時代の早いころ、十世紀ごろの特色をのこしています。しかし、衣文線がかなり浅く、平行線を重ねただけというような形式的な表現、中尊の切りつけの螺髪(らはつ)(註・巻貝のような形をした髪。仏像のちぢれた髪型をいう。)、脇侍の左右に振り分けた髷(まげ)(註・巻いた髪)などから制作年代は、平安時代中期、十一世紀ころと推定されます。
なお、この像はもともと、この天養院に伝えられたものではなく、『新編相模風土記』によれば、和田義盛が館の鬼門守護のために建立したという安楽寺(天養院末)の本尊であるとされています。その後、安楽寺が廃寺となったため、像は天養院に移されたものです。
平成四年三月三十日 三浦市教育委員会」とあります。
「天養院」について、『新編相模風土記稿』に、「五劫山宝泉寺と号す、浄土宗本尊阿弥陀、永禄二年(1559)年性誉建、開基長澤和泉(村民平左衛門の祖)とあります。
(つづく)
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