東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その2 団勝磨のメッセージの行方【1】
八月二十九日、米国先遣隊と実験所の接収について打ち合わせをした時点で、勝磨は後続として、その日に爆破部隊が来ることを知りました。それで前述の書き置きを残し、急いで実験所を離れたのです。ただ、その帰途、2台のトラックに分乗した65名の爆破要員に道を阻まれ、道順を説明する破目になりました。この部隊は到着後、特殊潜航艇を次々と爆破。沈めていきました。米軍には、事を急がねばならぬ理由があったのです。
実験所は海軍基地でしたから、当然爆破の対象でした。それが残ったのは、先遣隊の少佐も、爆破部隊のキャプテンもこのメッセージを十分理解したことになります。ゆえに実験所は、「メッセージ」により守られたのです。
では、実験所の扉に貼られた一枚の紙を回収し、ウッズホール海洋研究所へ届けたのは誰だったのでしょうか。
先遣隊・爆破隊に続き、進駐して来たのは米海軍第二潜水艦隊でした。九月三日のことと言われています。書き置きを見た潜水艦隊のパークス大佐は、メッセージの意義を認識したのでしょう。海軍の上級将校であれば、ウッズホール海洋研究所の存在は念頭にあるはずです。同研究所に贈ったのは、自然のことと思われます。
ただ、ウッズホールには、米海軍の支援(資金・技術)を受ける海洋研究所と、団夫妻が机を並べた臨海実験所の二つの研究所があります。このことから、当初パークス大佐は当然にメッセージを前者へ届け、そこから後者に移されたものとみられます。
このメッセージにより、団夫妻が無事であることを知った多くの研究者達は、歓声をあげて喜んだと言います。書き置きは、今もウッズホールの図書室の壁に同所の「宝物」として飾られ、戦後、ウッズホールを訪問した勝磨は、メッセージに自身のサインを加えています。日米海洋学者の友情の絆が復活したことを示す品です。
なお、これらの一連の経過は、アメリカに於いて「タイム」誌に紹介され、アメリカ全土に敷衍(ふえん)するところとなりました。
また、昭和天皇も1984年に訪米された際、ウッズホールを訪れられ、このメッセージをご覧になっています。
(つづく)
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