三浦の咄いろいろ みうら観光ボランティアガイド協会 田中健介
地域の歴史や文化、街並みを描いた文学作品などから、知られざる三浦の横顔に迫る連載コーナー「三浦の咄いろいろ」。今回は、正月特別編として、正月に関する言葉や風習などを紹介します。
「年の初め」のことについて種々の表現があります。例えば、「正月・小正月・七日正月・元日・元旦・元朝・年始・年頭・新春(はつはる)・三が日・松の内」などがあります。
また、一月一日が始まりですが終わりが何時(いつ)か明確ではありません。「明けましておめでとう」と挨拶を交わしあう間が新年とすれば、「三が日・松の内(七草がゆ)・鏡開き(十一日)を経て、小正月(十五日)の頃までが新年」なのでしょうか。『廣文庫』(大正五(1916)年発行・物集高見著)に『守貞漫稿』を引用して、次のようにあります。
「正月十五日、十六日、俗ニ小正月ト云フ、元日ト同ク戸ヲトザス、又三都(江戸、京都、大阪か?)トモニ今朝(十五日)赤小豆粥(あずきがゆ)を食ス、京坂(京・大坂)ハ此ノカユニ聊(いささ)カ塩ヲ加フ、江戸ハ平日カユヲ食サズ、故ニ粥(かゆ)ヲ好まぬ者多ク、今朝ノカユニ専(もっぱ)ラ白砂糖ヲカケテ食ス也(なり)、塩ハ加ヘズ、又今日ノ粥ヲ余(あま)シ蓄(たくわ)ヘテ、正月十八日ニ食ス、俗ニ十八粥ト云フ、京坂ニハ此ノコト無シ。」とあって、当時の江戸人は「砂糖入りのかゆ」を小正月に食していたのかと思うと、おかしくなります。現在でも「お粥」を食するのでしょうか。
「三崎」での正月行事について『三崎誌』(宝暦六(1756)年発行・松月亭市明著)に記載された年中行事のうちに、正月二日、「船祝ひ」、四日、「門松を納め、此(この)日より十三日まで町々の童(わらべ)共松の一枚を手毎(てごと)に持て海南宮へ日参す」とあって、「テサイナ〳〵テナイモノワカニコソウ」と社頭に至て十四日の御幣(ごへい)流しと社檀の敲(たた)き祝して帰る此童共左義長を勤む」とあります。
この中に「テサイナ〳〵」と、あることについて、『ちゃっきらこ風土記』(昭和四十二年発行・内海延吉著)の中で、「出さないな、出さないな、出ねえものはがんなぐそ」として、「がんなぐそは正しくはごうな・やどかりのこと」と、しています。
「左義長」は「どんど焼き」とも言って、門松や注連縄(しめなわ)、書き初めなどを焼いて、その火で餅を焼いて食し、無病息災を祈る行事のことです。
『三崎誌』にはさらに、次のようにも書かれています。「十四日の未明に左義長あり、町毎に海岸に勤む童共おかしき諷(うた)ひものあり」とあり、十五日の条には「町中火防神事有」と「同日、本宮社祭同日、女子ともはっせおどり、ヒヤリともいふ」が記されています。「はっせおどり」は、今日(こんにち)まで続いて「チャッキラコ」と呼ばれ、ユネスコの文化財として定着し、多くの方々の知るところです。今年も一月十五日に「花暮」の本宮社殿の前から始まる「チャッキラコ」が催されます。
「小正月」と呼ばれる一月十五日までが「正月」の諸行事が行われたのでしょう。旧暦の一月を「年の始めの月であるから知人互(たが)いに往来して、親しみ睦(むつ)ぶの意から『むつび月』を略して『睦月(むつき)』と呼ぶ」のだそうです。今年も一年、お互いに仲良く、健康に過ごしましょう。
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