三浦版 掲載号:2018年1月12日号
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連載 第7回「矢作のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介

海を隔てゝ矢作の地を見る
海を隔てゝ矢作の地を見る

 『新編相模風土記稿』の「村里部」に「本和田村・和田赤羽村・和田竹之下村」が記され、「和田郷」と唱(とな)えるが、古くは「和田」の一村であって、慶安(1648〜51年)の頃に三つの村になったということのようです。その「和田村」の小字(こあざ)に「矢作」(夜波紀(やはぎ))があります。

 『三浦古尋録』では「矢矯(ハキ)是(これ)ハ和田義盛馬場ノ跡」とあり、他本では「矢矯」について、「往昔和田義盛此処ニテ矢ヲ作ラシム故(ゆえ)今ニ至迄(いたるまで)里ノ名ヲ矢矯ト申スヨシ」とあります。ここに「矢矯(やはき)」の「矯」の意味は「矢をまっすぐにするもの」のことで「矯矢(きょうし)」という語はあります。『古尋録』の他本では「矢矧(ヤハギ)」の文字も使われています。

 『新編相模風土記稿』に「和田義盛」について、次のようにも記しています。

 「三浦和田党の祖左衛門尉義盛此地に住し、和田を以て家号とす」とあります。「和田義盛」の父は「三浦大介義明」の長男「太郎義宗」で、鎌倉の杉本城(現在の杉本寺の裏山)に住し、杉本氏と称していました。しかし、衣笠合戦の時よりも十七年前の長寛元年(1163年)に安房の国の長狭氏との合戦で傷を負い、それが元で死去しています。その事があってなのか、二男の義澄が三浦氏を継いでいます。ただ、義盛の父は若年の頃、「和田太郎」と称していたとも言われています。

 矢を作らしていた所から「矢作」の名称が生まれたというのですが、「和田義盛」は弓の名人でもあったようです。『源平盛衰記』の巻四十三に次のような場面が記されています。「源平の合戦も終わりに近い頃で、平家方は屋島を落ち、長門の壇浦に至って引島(ひくしま)の波間に漂(ただよ)っているところの場面です。

 「三浦平太郎義盛、船には乗らず浦路(うらじ)を歩(あゆ)ませ、敵の舟をさしつめ〳〵射(い)けるこそ、物に当(あた)るも健(つよ)く遠くも行きけれ。前権(さきごのん)中納言知(とも)盛卿乗り給へる船、三町余(あまり)(約330メートル)を隔(へだて)て沖に浮かぶ。三浦義盛十三束二伏(当時の矢の長さを言い、束(そく)とは一握(ひとにぎ)りの幅で、伏(ふせ)は指の幅を言うのです)の白篦(しらの)(篦は矢にする竹のこと)に、山鳥の尾を以(もっ)て矯(は)いたりける(矯は矧(は)くで、佩くと同じで、矢じりにつけること)を、羽本(うもと)一寸(3センチ)ばかり置きて、三浦小太郎義盛と焼絵(やきえ)したりけるを、能引(よっぴい)て兵(ひょう)と放つ。」とあります。ただ、この矢に対して、相手から射返されるという事となるのです。

 ここで、義盛は父の太郎に対して「小太郎」と称しています。また、「和田」の「矢作」で造られた矢を用いたのでしょう。

 「矢作」の地は海に面していたことで、天保十五(1844)年に書かれた『新編三浦往来』(竜崎戒珠著)に「下宮田矢矧ハ入江ノ小漁場平目(ひらめ)鯵(あじ)王領(かれい)魚等」が書かれています。また、「矢作湊(みなと)」とも呼ばれ、「江戸まで海上十九里」とも、『新編相模風土記稿』に書かれています。

(つづく)
 

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