連載 第16回「菊名左衛門重氏 氏のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
明治時代より以前、神奈川県内に「菊名村」の呼称は二ヶ所ありました。橘樹(たちばな)郡(現在の横浜市鶴見区の一部か?)の「菊名村」は明治の代に合併して「大綱村」になっています。ただ、「鶴見区」の隣りの「港北区」に「菊名」の名称があります。
その昔、「名字(みょうじ)」が許された時、多くの人が住んでいる地域の名を付けることが多かったのではないでしょうか。私の姓「田中」も、県内の「伊勢原」で、その地にある「田中」を名乗ったと聞かされています。
三浦市の「菊名」に、「菊名左衛門重(しげ)氏(うじ)」の碑があります。大正十四年六月十五日発行の『三浦大介及三浦党』(北村包直著)の中に、次のような一文があります。
「菊名左衛門重氏、三浦義(よし)同(あつ)家臣也。菊名ヲ領シ、忠勇夙(つと)ニ著(いちじる)シク。永正合戦、義同幼子虎王敵ノ為ニ檎(とら)エル所、重氏之(これ)ヲ奪ハント欲ス。挺身(ていしん)シテ敵陣ニ入リ遂ニ戦死ス。領民敬慕シ之(これ)ヲ葬ル。年所悠久(ゆうきゅう)シ、墳墓ハ漸(しだい)ニ荒廃ス。大正十一年秋。有志胥(あい)謀(はか)リ、墓(ぼ)塋(えい)ヲ修メ治(なお)シ、永存ノ法ヲ講ジ、且(か)ツ碑ヲ樹(た)テ記ス。」
さらに、「菊名重氏と虎王との詳細の事蹟は不明である。此の碑文を掲げて伝説に代えた。」との一文も記しています。
『南下浦の歴史探訪記』(浜田勘太著)の中に、「実は菊名左衛門重氏の名前は明治二十七年十二月に発行された『桜の御所』という小説で著者は村井寛。ペンネームは村井弦斉という。この歴史小説の中に出てくる名前で、(中略)明治二十七年一月から都新聞に連載したもので一躍読者が急増した作品であって、三浦を物語る文芸作品として最もすぐれた読み物である。」(後略)と記しています。
また、『三崎町史』(上巻)明治大正編(1)の中に次の文章があります。
「北条対三浦の戦いに金沢城主楽岩寺種久の娘小桜姫と荒次郎の悲恋をあしらった物語―物語であって史実ではない。篇中に、大森越前守、佐保田河内守、初声太郎行重、菊名左衛門重氏、一色十郎兼忠、芦名三郎、長沢六郎其他多くの三浦党の武士の名が出てくるので、この小桜姫の物語が史実であるが如き誤解を今も与えている。」とあります。この「町史」の発行は昭和三十二(1957)年です。
ある人は、この『桜の御所』という小説を評して、「戦争七分に恋三分の小説なり」としています。
こんな話は「きくな」なのでしょうか。
(つづく)
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