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〜団夫妻が残したもの〜 東京大学三崎臨海実験所異聞 文・日下部順治その17 実験所を支えた地元の2人【2】

掲載号:2018年12月14日号

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 明治43(1910)年、昭和天皇が学習院初等科時代(幼名「迪宮(みちのみや)」の頃)に実験所を訪問され、魚釣りなどをお楽しみになりました。水族室でタモを取ってイカをすくい上げられた際、吐き出たイカスミが熊さん(青木熊吉)の顔へまともに当たり、彼の着ていた白服と顔が真っ黒に染まったことがありました。一座はワッと笑いに包まれ、ご幼少の御子は「ジイ怒るなよ、御所へ帰ったら新しい服をやるぞ」と仰ったそうです。そのあとも御子(昭和天皇)は大正〜昭和初年の間、実験所に3度お目見えになりましたが、汚れた服の件についてご沙汰がなく、そこで熊さんは自慢します。「日本広しと言えど、御上に貸しがあるのは、オレ一人」と。その後、昭和4(1929)年8月18日の御訪問が決まったとき、破格の思し召しによって熊さんは侍従の許へ召し出され、洋服代として金一封を賜ります。「これで当方に借りはないぞよ」と申し渡されたという話は、当時の各紙に大きく報じられました。

 大正14(1925)年に定年。以降も嘱託として勤め、昭和15(1940)年に喜寿を迎えました。日本動物学会は彼の功績をたたえ、学会誌「動物学雑誌昭和15年9月号」を「青木熊吉翁喜寿祝賀特集号」として表彰の意を示しますが、この時すでに、熊さんは病床にあり、同年12月1日に帰らぬ人となりました。戒名「玄海自證居士」。今は三崎の自宅近くにある寺の一角に眠っています。

■  ■  ■

 青木熊吉に次ぐ実験所の採集人「重さん」も忘れてはなりません。「重さん」こと出口重次郎は、昭和2(1927)年から半世紀近くも勤務し、その間、実験材料を提供し続けただけでなく、海の動物の飼育法や標本作成にも新機軸を開いた人でした。直接厄介になった研究者だけでも500名を下らず、実習で世話になった学校は十数校に及びます。また太平洋戦争の敗戦前後には、文字どおり身を挺して団勝磨と共に、日米両軍から実験所を守り抜いたのも重さんです。採集人としての枠を超えた功績は特筆すべきものがあります。

 重さんは明治27(1894)年12月21日、実験所から歩いて10分ばかりの小網代の村に、桶屋の次男坊として誕生。家業を継ぐ気は無く、漁師の仕事もあまり肌に合いませんでした。そこで、大正3(1914)年海軍水路部の測量夫に職を得、南洋諸島や千島の測量などに従事した後、三崎に帰り職を探すことになりました。

(つづく)
 

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