連載 第34回「新井城址のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
明治二十七(1894)年一月から、村井弦斎の小説『桜の御所』が都(みやこ)新聞に連載され、さらに同じ年の十二月に単行本として出版され、六版を重ねる程の人気があったと言われており、三崎が作品となって世に紹介された初めであると、『三崎史上巻(明治大正編1)』に記載されています。
作者の村井弦斎は、現在の三崎一丁目「本瑞寺」下の旅館「青柳亭」(現三崎一丁目十一辺り)に滞在して執筆したと言われています。その折に、見聞録として『桜の御所拾遺』をも書いています。その中に「新井城の旧趾」の一節があります。ここでは『三崎町史』に記載されたものの一部を紹介します。
「新井城の旧趾は三崎町の北隣小網代港にあり、故に網代新井の城と称す、(中略)城の在りし処(ところ)半島の形を為(な)して海中に突出し、其後(そのうしろ)は網代港にて其(その)前は油壷の湾たり」と記され、三浦道寸公と荒次郎義意公の墓石を紹介し、さらに、次のように記してします。
「毎年七月十一日即ち新井落城の日には其(その)祭典あり、此地に遊ぶものは必ず此墓に詣づ」ともあります。現在では五月の最終日曜日に「道寸祭り〜笠(かさ)懸(がけ)」が油壷の荒井浜海岸で行われています。
さらに、「殊(こと)に荒次郎と云へば其地(そのち)の人鬼神(きしん)の如く心得、狐魔(こま)を除くにも疫病を払ふにも多くの荒次郎の名を唱ふ、何(いか)さま大剛の勇士たりしに相違なし」とも記されています。
小説『桜の御所』の最終章では、「荒次郎櫓の欄干に立出で目に余る敵勢を見渡し天地に響く大音揚げ『やあ敵の者ども確に承(うけたまわ)れ、三浦大介義明が十四代の遠孫弾正少弼(しょうひつ)荒次郎義意が最後の有様を見て後世の手本にせよ』と大太刀を口に咬えさしもに高き千段櫓(やぐら)の頂上より油壷の水中へ真(ま)逆しまに飛入ったり、」とあります。
一方、『北条五代記』の伝えるところでは、「荒次郎は二十一歳、器量骨柄人にすぐれ、長七尺五寸(約2m25cm)、黒髭(くろひげ)あって血眼なり、手足の筋骨あらくして八十五人が力(ちから)をもてり、(中略)白樫の丸木を一丈二尺(約3m60cm)につゝきり八角にけづり、筋がねをわたし、此(この)棒を引さげ、一人門外にゆるぎ出たる有様、夜叉(やしゃ)羅刹(らせつ)(猛悪な鬼神)の如し」として、「横手に打てば一拂(はらい)に五人十人打(うち)ひしぐ、棒にあたりて死する者五百余人」として、「敗北して自ら首をかき落し死たりけり」として、「三年此(この)首死せず、小田原久野の総世寺の禅師、来て一首の歌を詠じたまふ、『うつとも夢ともしらず一(ひと)ねぶり、浮世のひまをあけぼのの空』とよみて、手向たまへば、眼ふさがり忽(たちまち)肉朽(くち)て白(しろ)かうべと成りぬ」と書かれています。
(つづく)
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