連載 第37回「海南神社のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
はじめに、前回の後半に「海南神社」とすべきところを、「南海神社」と記したことは、まちがいです。「海南神社」と訂正して、お詫び申し上げます。
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「海南神社」のことについて、『新編相模国風土記稿』(天保十二年/1841年完成)に、「海南明神社」として、「本郡の惣社なり、藤原朝臣資盈の霊を祀ると云ふ、神体は束帯(儀式などで着た正式の服装)の座像長さ一尺五寸(約45・5センチ)。また、地主神と称する神体あり」として、「長さ五寸(約16・5センチ)、十(じっ)徳(とく)(近世、絵師や医者などが着た、わきを縫いつけた羽織のような衣服)の如きものを着す。」と書かれています。
さらに、「社伝の略」として、前回でも記しましたが、ここでは次のように記しています。
「資盈は太宰大弐(だざいのだいに)(「太宰府」と言う、現福岡県太宰府町に設けられた西海道〈九州〉の総管府で、長官を師(そち)と言い、次官を大弐(だいに)と称した。)廣嗣(ひろつぐ)四代の孫なり、貞観六(864)年、伴大納言善男、左大臣源信を亡(ほろぼ)さんとの企(くわだて)ありて資盈を語らふ(誘(さそ)うの意)、資盈肯(した)がはず、善男怒りて資盈謀反(むほん)の聞(きこ)えありと讒(ざん)す(そしるの意)、此(ここ)に於(おい)て資盈を追討すべきの勅(天子のことば)あり、資盈九州に居ることを得(え)ず、父子三人郎等五十三人を具(ぐ)して、海に浮び十一月一日、此地に着す、時に房総の海賊民家を煩(わずら)はす、資盈是(これ)を討て、殃(わざわい)を除(のぞ)く、土民(土地の人々)尊敬浅からず、同八(866)年十一月一日夫婦郎等四人相共に没す、その死骸を海に沈め、祠(ほこら)を建て神に祀(まつ)ると云ふ、按ずる(しらべてみるの意)に此の事、国史に所見なし、系図に拠(よる)に、廣嗣は宇合の子、天平十二(740)年、謀叛(むほん)の聞(きこ)えありて誅(ちゅう)(討たれるの意)に伏す。」とあります。
このことについては、『俳諧三崎志』(市明改訂のもの)では、「相伝秘書曰」として、次のように記しています。
「太宰廣嗣(ひろつぐ)の曽孫(ひまご)松浦広尚の孫(まご)尚資(なおすみ)の死後、後継がなく、勅によって資盈が、その職を賜わった。」(一部省略)とあります。
それにしても、九州から、この地への舟旅は、たいそう難儀なことであったと思います。
「御神詠」として次のように詠われています。
「霧の海の南に弓をかけまくもかしこき神の例(ためし)にそ引く」と、あります。
(つづく)
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