東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その23 夫妻の最期と、長女みかさん
団夫妻の長女みかさんからの便りにあった、重さん夫婦に触れたエピソードをお届けします。
『重さんが勲章を授与されることになったとき、お安さんはもう亡くなっていたし、上京、それも皇居への授賞式でカチカチに緊張している朝、重さんに父が家に来るよう、もしかして付き添いを申し出たのかもしれないと思うのですが、原宿の家のアームチェアーに羽織袴の正装で座っていた重さんを覚えていますよ。おかみさんのお安さん(父はおやっさんとよんでいました)には子供がなく、私たちは油壺へ行く度に、重さんの家に寄り道をし、おやつをもらったことでした。おやっさんは箱が大好きで、天袋の上まで綺麗な箱を貯めていて、時々見せてくれましたが、重さんは空箱ばっかり集めて、と、優しい顔して苦笑いしていましたよ。』
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みかさんは当時暮らしていた大阪で晩年の勝磨を引き取り、最期を看取りました。勝磨は都立大学退任後も、東京用賀のフランシスコヴィラという老人用のマンションと油壺を往来し、80歳を超えてもなおウニの研究を続けていました。油壺の敷地内には勝磨専用の宿舎があり、その生涯は油壺とウニと共にあったといえるでしょう。そして、平成8年5月18日、91歳でこの世を去ります。
一方、ジーンは昭和53年11月13日、館山の海を見渡す自ら設計した在野の自宅で死を迎えました。68歳、喘息の発作によるあまりにも急な別れでした。親しく交誼した地元の農家の人達、全国から駆けつけたジーンのお弟子さん等による文字通りの「野辺の送り」が行われ、この様子は加藤恭子著「渚の唄」の中で詳しく描かれています。涙して読む一小節です。
ジーンの亡きあと、みかさんは随所で勝磨の生活上の世話をし、勝磨もまた自伝の書「ウニと語る」で名前を挙げ、謝意を述べているのです。
団夫妻は今、みかさんが住む宮城県仙台市内の葛ヶ岡墓園で眠っています。心地よい公園墓地で、勝磨も気に入っていたようです。 (つづく)
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