連載 第41回「海南神社のこと【5】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「海南神社」が他に見られる姿と言えば、参道の左側に、食材を抱えた大きな肖像画が描かれていることです。「食の神」と言われる「磐鹿六雁命」の姿です。本殿の左側に祀られています「相州(そうしゅう)海南(かいなん)高家(たかべ)神社」の祭神です。千葉県千倉町の高家(たかべ)神社からの分社です。海山の物産に恵まれた三浦で、この神を祀ることは、自然の恵みに感謝を捧げ、食文化の向上を祈願する「食の神」祭を毎年開催しています。本年は先月の、五月十六日に、「包丁塚移設記念式典・包丁供養祭」が開かれました。
「食の神」と言われる「磐鹿六雁命」とは、どういう神様なのでしょうか。
天皇の初代は「神武天皇」で、第十二代が「景行天皇」です。その子に「大碓(おほうす)の命(みこと)」、「小碓(をうす)の命(みこと)」がおられます。『日本書紀』に、「父の天皇が皇子の誕生に当って、石臼の上で躍(おど)って喜んだから、大碓の命、小碓の命と言う。」(『古事記』角川文庫版の脚註)とあります。
その「小碓の命」が、後ちの「日本武尊(やまとたけるのみこと)」です。この表記は『日本書紀』のもので、『古事記』では「倭 建 命」と、しています。
景行天皇の二十七年、冬十月十三日に、天皇は日本武尊を遣わされて、九州の熊襲(くまそ)をお撃たせになったのです。その時、日本武尊の御年は十六歳でした。その後、「東征」を経て、「能褒(のぼ)野(の)」(現三重県鈴鹿郡の地)に至られて、お崩(かく)れになったのです。時に御年三十。
その後、「景行天皇」は、「小碓王」(日本武尊)が平定した国を巡幸したい、旨を群卿に伝え、冬十月に、上総国に至られて、海路をとって淡水(あわのみ)門(なと)(現館山湾か?)を、お渡りになった。このとき、覚賀(かくかの)鳥(とり)(みさご)の鳴声がした。天皇は、その鳥の形をご覧になりたいと思われ、海の中に出られた。そこで白(う)蛤(むき)(はまぐり)を得られた。そのとき、磐鹿六(いわかむつ)雁(かりの)という者が、蒲(がま)の葉を手繦(たすき)として、白蛤を膾(なます)につくってたてまつったのです。天皇は、大変によろこばれて、磐鹿六雁命とし、膳(かしわでの)臣(おみ)を賜わったのです。後に宮中にあって大膳職の長となり、わが国の料理の祖神として崇められています。
境内にある肖像画は、磐鹿六雁命の大絵馬で、縦4m・横5mと言われています。描いている方は「馬堀法眼喜孝」画伯で、三浦市内の「七福神」の肖像画をも描いている方です。
境内にある「神楽殿」の軒下周囲には日本神話の数々が絵に描かれていて、神域の雰囲気をも醸(かも)し出す効果を示しているようです。
(つづく)
|
|
|
|
|
|