東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治、吉本尚その25 番外編【2】
私(吉本)は團先生晩年の都立大学時代にその教えを受け、この臨海実験所で一夏を過ごすというまたとない機会を頂いたのですが、東大で学位取得後に先生の留学先でもあるペンシルバニア大学(そこでジーンさんと出会われた)にいたこともあって、時代背景こそ異なるものの、私は團先生の歩まれた道筋をちょうど逆順にたどったような関係にあったわけです。
ところで、私が知る團先生は傍目から見てもまことにお気の毒な状態でした。というのは、学長職をやむなく引き受けられ(教授会で示し合わせて先生を推し立てたらしいのですが)、それで折から全国的に吹き荒れ始めた学園紛争の嵐の矢面に立たされることになり、過激派らに長時間軟禁されるやら、大学の秩序維持に奔走するやらと、まるで研究どころではなくなってしまったのです。東大の安田講堂事件なども同じ時期の出来事でした。
そんな團先生にとって唯一ほっとする逃避場所が、この臨海実験所と三浦の海だったのではないでしょうか。実験所としても過去の貢献に報いるため、施設を以前同様自由に使ってもらえるよう便宜を計っていたのではと思われるのです。
重厚な煉瓦造りの実験棟に向き合って淡いブルーの瀟洒(しょうしゃ)な木造の洋風建築がありましたが、團夫妻はそこをまるで私邸のように(あるいは別荘的に)使っておられました。そこには私ら学生も何かと気軽に出入りさせて頂いたので、大変懐かしい場所なのですが、残念ながら今から十年ほど前に火災で失われてしまいました。その少し前にふと懐かしく思い、再訪した時は空き家状態ながらもまだ健在でしたが、それにしても明治期に建てられた文化財級の貴重な建物が突如失われてしまったのは実に惜しいことです。
ただ、その玄関脇に寄り添うように立つ一本の椰子の木だけは幸い焼失を免れ、その跡地に最近建てられた採集作業棟のすぐ脇で、昔も今も変わらず実験所を見守っています。
(つづく)
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