東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治、吉本尚その28 番外編【5】
横須賀市長井には長井婦人会保育園という大変立派な保育園があるのですが、経営を行うほど活発な婦人会の存在こそ、團ジーンが戦後地元の人々のために尽力した証(あかし)だといえるのです。
疎開先から長井に戻ったジーンは、戦争で男手を失って呆然と立ちつくす母子らの窮状を見るや、人々の生活基盤確保のために奮闘します。そして先ず、取り組んだのが婦人会組織の活性化でした。米軍との折衝により残飯や塵芥処理の権利を譲り受け、さらには骨身を削るような努力の末に鉄屑の再加工や各種必需品を製造する町工場風のものまで作り上げてしまいます。それにより多数の家庭の生計維持が可能となり、その収益は全て漁港整備など町の復興のために注ぎ込まれたのです。しかし、残念なことに当時の世相にあっては、そんな無私の、今風にいえばボランティア精神などは正しくは受け止められず、「私利のためだろう」とのデマが飛び交うやら土地の顔役らがその利権に目を付けるやらで、結局ジーンはそれら一切から身を引き、大きな失意を味わうことになります。婦人会そのものはその後も婦人会授産所の経営などを続け、後にそこの一角に開設されたのが今の婦人会保育園なのです。
それを機とした社会活動からの決別がジーンを再び科学者の道に立ち戻らせるきっかけとなり、科学者團ジーンとしての目覚ましい再出発に結びついていきます。
『團ジーン博士の位相顕微鏡』。これは上野の国立科学博物館に常設展示されていて、解説パネルの上部には團夫妻の三崎臨海実験所における仲睦まじい写真も添えられています。位相差顕微鏡は生物の細胞を生きたまま観察できる精巧な装置なのですが、じつはこれこそが米ボシュ・ロム社がその商品化に成功した記念すべき第一号機で、そんな貴重な品を米国の科学者仲間が手を尽くして入手し、戦後初のジーン氏の里帰りの際、日本への土産として持たせてくれたのです。そして團ジーンはこれを駆使することで精子が卵子に侵入する際の先体反応を発見するなど、その業績は今でも燦然と輝き続けていています。
(つづく)
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