連載 第52回「諸磯のこと【1】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「二町谷」を通り抜け西海岸の道を行くと浜諸磯に至ります。
「諸磯」の地について、『三浦市区長会・二十五年のあゆみ』(昭和五七年三月発行)に、次のようにあります。
「諸磯の地名が、初めて文書に見られたのは、建武二(1335)年九月、足利尊氏下文の状に(中略)『諸石名』とある。その頃は『諸石名(もろいしな)』といったか。『いしな』とは石、また小石の意がある。時は室町前期である。続いて室町中期、新井城が油壷に構築されるや、諸磯の浜は急激に新井城の外郭としての施設が設けられた。浜の物見塚、神明社裏山が家老大森越前守の固める居館、白須の台上には鐘撞(かねつき)堂が併置され、その他附近の天嶮の地(てんけん/けわしいところ)は要害の拠点となった。」とあります。(中略)江戸時代の文禄三(1594)年には「諸石」とあり、元禄十(1697)年の『元禄改定図』には『諸磯』と書き換えられている。」とも、記されています。
その「諸磯の浜」に鎮座して祀られている「神明社」があります。祭神は「大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)」で、「天照大神」のことです。勧請は建久正治年(1190〜1200)間ということで、一緒に、「日本武尊(やまとたけるのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)」が祀られています。祭神の「大日孁貴尊」の「孁」の字は「霊的能力を持った女=巫女(みこ)の意味で、「ヒルメ」は「日の妻=太陽(男神)に仕える巫女」とする説や「日女=太陽の女神」とする説もあります。また、アマ(天)+テラ(照)+ス(尊敬)と「天に坐々(ましまし)て照り賜(たま)ふ意」や「海光(アマテラス)神」とする説もあります。
この神社は明治六(1873)年に村社となっています。
『三浦郡神社由緒記』(昭和十年、三浦郡氏子総代会発行)に、次のようなことが書かれています。
「諸磯の浜は油壷の対岸にある漁村で相模灘の彼方(かなた)に伊豆大島の噴煙を遥(はるか)に眺めて洵(まこと)に壮大な風光である。
神明社は此の地の鎮守で湾の南突端に祀られてゐる、社殿は権現造り(拝殿と本殿との間に石の間と称する繋(つな)ぎ目のある建物)で後背は森を越えて海に臨(のぞ)み、社(やしろ)は諸磯の部落を正面に鎮座まします。」とあります。
例祭は九月四日とあります。大正二年の例祭に、当時、三崎に居住していた北原白秋が参詣しています。その様子が「畑の祭」という作品に表現されています。
それについては、次号に書かせて頂きます。 (つづく)
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