三浦 コラム
公開日:2019.12.13
連載 第53回「諸磯のこと【2】」
三浦の咄(はなし)いろいろ
みうら観光ボランティアガイド 田中健介
北原白秋が三崎に転居してきたのは大正二年の四月下旬でした。白秋の父母、弟妹そして、最初の妻となる俊子をむかえ、一家をあげて三崎の向ヶ崎に住んだのでした。
白秋は黒い表紙の手帳を懐(ふところ)にして、三崎の町中を歩いていたのです。三崎を詠じた歌集『雲母集(きららしゅう)』には五百五十首にも及ぶ歌が収められています。
大正二年の九月には、白石の見桃寺に妻の俊子と二人のみで移住しています。その白秋が「畑の祭」という作品を書いています。岩波版の『白秋全集』29巻に「白秋小唄集」として「草の葉っぱ」という題の中に「畑の祭」が収められています。
「大正二年九月某日、相州三崎は諸磯神明宮祭礼当日の事、上層に人形、下段にお囃子(はやし)の一座を乗せた一台の山車(だし)は漁師と百姓とを兼ねた素樸(そぼく)な村人の手に曳(ひ)かれてゆく。先(ま)ずその山車は鎌倉街道から横にそれて、一小岬の突鼻(とっぱな)の神明宮(しんめいぐう)まで、黍畠(きびばたけ)粟畑(あわばたけ)の高い丘道をうねってゆく。而(しか)も日中、日は天心(てんしん)(空のまんなか)にかかってゐ(い)る。径(みち)は緩(ゆる)い傾斜を登ったり下(お)りたりしてゆく。崖の高みを行くのでその両方に真碧(まっさお)な海が見える。径(みち)が山車(だし)の幅より狭(せま)い位(ぐらい)なので、松や蜜柑(みかん)にぶつかったり何かする。而(しこう)して畑の上でも何でも構(かま)はず曳(ひ)いてゆく。(中略)山車が進んでゆくと、そこから神明宮と相対した油壷の入江が見え、向(むこ)ふの丘の上に破れかかった和蘭風(オランダふう)の風車が見えてくる。その下に大学の臨海実験所の白い雅致(がち)(上品なあじわい)のある洋館がある。芝生が見えキミガヨランが見え、短艇(ボート)が二、三艘浮いて見える。まるで南伊太利亜(イタリア)あたりの風景にでも接するやうである。愈(いよいよ)丘の畑をすべり下りると平たい、かっと明るい渚(なぎさ)に出る。右も左も渚である。ここに神明宮の鳥居がある。(中略)一同は赤々と日が暮れるまで盛んに酔っぱらって踊ったり、唄ったりする。(中略)凡(すべ)てが如何(いか)にも馬鈴薯式なので村の祭とか田舎とか云ったりするよりは却(かえ)って『畑の祭』とした方が適当かも知れない。」(後略)
この後(あと)に「やれやあ引、さの、せえい、せえい、せえい、せえええい、」で始まる詩が続きます。かけ声の入った、リズミカルな詩です。内容は次回に……。
諸磯神明宮の例大祭は九月四日ですが、現在では四年に一度、神輿(みこし)の渡御が行われるとのことです。 (つづく)
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