連載 第59回「油壷のこと【3】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
道寸公の墓を参拝した後、川上眉山は油壷の海辺へと歩を進めます。そのことを次のように記しています。
「丘を下り、浪(なみ)に添ひ、岩を跳(とび)越え、松に縋(すが)りて危き崖下を行くこと少時(しばし)、巨巌(きょがん)浪を衝(つ)い勢(いきおい)飛動せむずる根(ね)もとに出づ。」(丘を下って波にしたがって岩を跳び越(こ)え、松の木につかまりながら危い崖下をしばらく行くと、大きな波が巨大な岩にうちつけている処の下方に出た。)「かたへの稍(やや)平なる方に下(おり)立ち、岩の狭間(はざま)に枯枝(かれえだ)を積み、火を放(はな)ちて酒を煖(あたた)む。」(片側の少し平(たいら)になっている方に下(おり)立って、岩と岩のせまい間に枯れ枝を積み、火を燃やして酒を温めた。)(もし、都の華やかな中に居て、手を打てば、しとやかな女性がよい肴(さかな)をもって、ゆったりと美酒をすすめてくれるのに、)「落莫(らくばく)(ものさびしい)たる城址の下、沖の白帆を見る眼の友として、旅にしあれば椎(しい)の葉のそれも無(な)ければ、柏の広葉を折敷きたるを器に、手近(てぢか)に生(は)へる紫海苔(のり)を自(おのづか)らなる潮に揉(も)み、袂(ふところ)の玉子を打添(うちそえ)のさかなとしたるに、落散る色貝の美しきを盃(さかづき)として飲みかくる。」
このように、眉山は枯れ葉を尻の下に敷き、手近の岩海苔を肴(さかな)にして、貝殻(かいがら)を盃にして燗酒を飲んだのでした。そして海上へと眼を移します。
「時なるかな、風は雲を払い尽して塵(ちり)も交(まじ)らぬ乾(いぬい)(北西の方角)の空に我が白妙(しろたえ)の富士は漫々(広くはてしないさま)たる蒼波(そうは)を排(ひら)き(青い波をおしひらいて)其山此山足柄(そのやまこのやまあしがら)つづきのうす墨(ずみ)を抜(ぬ)いて高く婉(えん)(しなやかでうつくしい)として立つ。大島も見ゆ。天城(あまぎ)も見ゆ。」
眉山の眺めた北西の海上の彼方に、まっ白に雪を被(かぶ)った富士が足柄山を始め、山々の彼方に、美しい姿を見せています。また、伊豆の山や大島の島影をも眺め入ったのでした。
その後、眉山は三崎へと向かいますが、道々、自らの飲酒について、「とにもかくにも酒を慎まむことを思ふ。頃来(けいらい)(このごろ)日に飲む事三升を下らず…」と書き記しています。さらに、「三崎に行かば飲むべし。と直ちに思定(おもいさだ)むる心根(ここね)の下劣(げれつ)なることを恥づるの次第是非もなし」とも記しています。
三崎では「紀の国屋」旅館に二泊して、菊名から浦賀へと向かっています。
眉山の「三崎」での様子は、部分的に『三崎町史』(上巻)にも掲載されています。
(つづく)
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