連載 第69回「三浦の五木その【2】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
五木のうち「椿」について『三崎誌』の木石の項目「椿」の欄に「向崎にあって鎌倉右大将(頼朝公)、華(はな)を観賞された処(ところ)は「今ノ大椿寺ハ、ソノ跡ナリ」と記されています。
また、『三浦古尋録』の「向ヶ崎村」の項目のうちに、「昔シ頼朝公椿ヲ植サセ給ヒ御山荘ヲ建給フ故ニ「椿ノ御所云(うんぬん)。三崎ニ桜ノ御所、二町谷ニ桃ノ御所、皆御遊覧ノ地ナリ此ノ椿三浦五木ノ一也」と記されています。
また、『新編相模風土記稿』の「向ヶ崎村」の項に「三崎分村の一なり」として「三崎町北条入江の対岸出崎なるがゆえ、村名起ると云(いう)」とあって、さらに、この地に大椿寺がある。とも記されています。『三崎誌』には「往古鎌倉将軍の別亭椿の御所今その旧地大椿といふ本尊観音三浦三十三所第三番の札所なり」と書かれています。また『北条五代記』に「向ヶ崎の大椿寺は由来ある古跡、(中略)故、三崎よりは船にて渡海し棹のひまもなし、二世の願望成就し、再礼の袖連(つらな)り、暁の鐘の声には泊船眠を覚す」とありますように霊験あらたかな処であったようです。開基は妙悟尼で、この方のことを「頼朝公の室(妻女)」との説もありますが、そうではなく、鎌倉の待女で、のち剃髪して此の地に住んだ女性であると記し、さらに、「寺伝に此地(このち)は妙悟尼住(じゅう)せし所にして園中椿樹多くありしゆへ、世俗椿ノ御所と称す、後(のち)一寺となし大椿寺の号を授けしと云ふ。今も境内椿樹両三株あり」とあります。
五の目の木は城ヶ島の「棍柏(びゃくしん)」の古木です。
『城ヶ嶋村沿革畧誌』(明治二十年七月加藤泰次郎編)に、「白杉の古木」として次のように記されています。
「安房崎洲(す)ノ御前祠(ごぜんほこら)前ニ在(あり)、往昔(そのむかし)源右府(頼朝公のこと)、和田義盛、佐原十郎、三浦平六兵衛(義村)等ヲ従ヘ本嶋ニ遊宴シ、此所(ここ)ニ張ル一枝ヲ地ニ挿(さ)ス。此(この)枝繁茂シテ後世ニ至リ古木トナルト云フ、而(しか)ルニ貞享三(1686)年四月大風ノ後、古木ノ空(うろ)ヨリ発火シ焼失ス。其(その)残片尚(なお)存シ常光寺ノ堂内ニ保存。」と記されています。
『新編相模風土記稿』には、「城ヶ島海南神社」の項に「古は棍柏(びゃくしん)の神木があったが貞享三年四月、天災に罹(かか)り枯槁(ここう)し、村民が、その木を伐て海南神社に納めたとあります。さらに註として「此(この)木は源頼朝遊覧の時、楊枝を挿置(さしおか)れしに枝葉を生じ、遂(つい)に老木となりしと云ふ。」と記されており、『古尋録』にも同様なことが書かれています。
さらに、「城ヶ島は頼朝公御遊覧の地であるから『遊ヶ崎』と云う。」とも記されています。
五木はいずれも源頼朝公に関係あるものばかりです。
(つづく)
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