まだ見ぬ何かを追い求め―。逗子市を拠点に世界を股にかける「冒険家」がいる。同市新宿在住の三浦豪太さん(43)だ。エベレスト、キリマンジャロなどこれまで世界の名だたる山を相手にしてきた三浦さん。年明けは新たな1年に向けた”旅立ち”でもある。本紙では三浦さんがこれまで歩んできた軌跡や今も冒険に挑み続ける、その思いの丈を取材した。
登山家、プロスキーヤーとして
マイナス30度。身体の芯まで凍てつく極寒の世界を、砂と礫(れき)に足を取られながらひた歩く。夜中にアタックを開始。高山病にも悩まされ、「何でこんなところへ来てしまったのか」と何度も後悔した。いったいどれだけ歩いただろう。ふと気が付くと背中が温かい。後ろを見やると水平線がうっすらと紫色に染まっていく。夜明けだ。空にはいまだ星が瞬き、眼下には見渡す限りのサバンナが広がっていく。「なんてきれいなんだろう」――。それがわずか11歳、史上最年少で踏破したキリマンジャロからの景色だった。
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初めての冒険談を尋ねると件のエピソードが返ってきた。「強烈な思い出ですね」と30年以上経た今も記憶は色あせない。プロスキーヤーであり、登山家。医学博士でもある。「現代では定義が曖昧で、己が未知のものに挑戦するという意味で」と前置いた上で、自らを「冒険家」と称する。これまでキリマンジャロをはじめシシャパンマ、アイランドピーク、パルチャモなど名だたる山を踏破してきた。03年には父とともに最高峰、エベレストを制覇し、日本人親子で初の同時登頂を果たしたことで話題を呼んだ。スキーヤーとしては長野五輪や世界大会の出場、日本モーグル界の牽引的存在でもある。現在43歳。今も登山とスキーを柱に世界を股にかける日々。今まで歩んできた冒険の軌跡はあげればきりがない。
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偉大な背中を見て育った。父親は7大陸最高峰スキー滑走や世界最高齢のエベレスト登頂を果したことで知られる三浦雄一郎氏。「山に関して言えば、ルーツは父。いつも環境を与えてもらっていた」。世界中の登山に同行し、その都度未知を追う好奇心が芽吹くのを感じた。さらに今は亡き祖父も日本スキー界の草分けとして知られる存在。親子3代で同じ道を歩むようになったのは半ば必然だった。
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話は冒頭に戻る。幼少の頃父、雄一郎氏は旅先に連れて行くため様々な理由をつけては家族を”口説いた”のだそう。「いいか豪。キリマンジャロでは昔、『ソロモンの王様』が指輪を火口に投げこんだんだ。それは全ての王を制する覇王の指輪だ。もしそれを見つけたら、お前は世界で一番有名な小学生になれるな」。はて、どこかで聞いた話だ。しかし夢を膨らませた豪太さんはまんまとこの話に”騙された”。「でも気が付いたんですよ。こんなに寒くて辛い場所に、王様が指輪を捨てに来るわけがないって」。今では笑い話。何かを得たわけではないが、何事にも変えがたい景色を目にすることができた。今もあの景色は自身の原風景になっている。
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もちろん美談ばかりではない。冒険の最中、命を落としそうになったこともある。08年、父とともに2度目のエベレストに挑んだときのことだ。8千mまで登ると次第に父の後を追うのが辛くなってきた。何かおかしい。咳が止まらず痰に血も混ざる。肺への違和感とめまいも。ついに意識が途切れた。脳浮腫だった。酸素欠乏が肺に負担をかけ、脳の毛細血管から血が滲み出していたのだ。登頂目前だったが、やむなく下山を決意。偶然父のために用意した薬を注射し何とかその場を凌いだ。「一歩違えれば確実に命を落としていた」。後日の医師にそう診断された。
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逗子に越してきたのは7年前。「海と山が近くて、自然も人も豊かで魅力的な土地」。多忙な日々、自宅に帰れるのは月に数えるほどだが「ここが自分の帰る場所」と愛着を滲ませる。この頃は地元で講演をすることもある。伝えたいのは冒険の本質だ。
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人類が未知のものを切り開くことのみが冒険か。さにあらず。曰く、冒険とは己の好奇心の延長線上にあるもの。必ずしも特別なものである必要はない。「海や山で生き物に触れたり。逗子には”手触りの冒険”がたくさんある」。大切なのは記録ではなく、好奇心。遊びの中で小さな冒険心を育てれば、いずれそれが芽吹く。「僕自身も子どもの頃からの延長線上。今も遊んでいるようなものです」。今年は3度目、父の80歳での登頂をかけたエベレストへの挑戦がある。「今度は父と一緒に頂上に立ちたい」と前を向く。話の終わり、苦難を味わいながらもまた冒険にでる理由を尋ねた。すると歯切れよくこう返した。「全てが、楽しいからですよ」。そう語る表情には11歳の時と変わらぬ、無邪気な笑顔が浮かんでいた。
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