逗子市役所隣にある亀岡八幡宮がこのほど、社殿改築から100年を迎えた。5月11日(土)には、これを記念した催しが開かれる。関係者は「この機会に当宮の歴史を知ってもらい、令和という新しい時代も愛される神社になれば」と話している。
第15代応神天皇を祀っている亀岡八幡宮。勧請の時代は定かではないが、『新編風土記』には「八幡宮、村の鎮守なり、延命寺持」と記されている。かつて、古老が語ったことによれば、延命寺が神社を管理し、例大祭の時には延命寺に合ったご神体を捧持。列を連ねて社殿に遷し、祭儀を執行していたという。
大正8年に落成
明治時代に入ると、神仏分離令により寺の管理ではなくなり、1873年には正式に「逗子の鎮守」と定められた。
社殿の改築が行われたのが1919(大正8)年。4月17日に行われた落成式をおさめた写真の裏には「当八幡社は逗子住民の祖先より崇敬の鎮守なりしが、頗(すこぶ)る廃朽して…逗子急激の進展を観、氏子等相寄り相謀り…氏子の三年貯金を募りて総工費金弐萬円を費やしついに大正8年落成を告げたり」と書かれている。
その後、戦争の傷跡がまだ残る昭和20年代にはすでに神輿が担がれていたというから、逗子市民の信心深さと、祭り好きな気質がうかがえる。しかし、昭和30年代から街が「海水浴のメッカ」として大きく変貌をとげる過程で、神輿は一度途切れる。海の家を作る職人など「外」から来た若い衆が暴れて収拾がつかなくなったためだった。ただ、その間も祭礼は行われていたという。
その後、商店街関係者が中心となり、神輿復活へ始動。1974(昭和49)年、銀座通り商店街青年部が樽神輿を担いだのをきっかけに、復活したのだった。
しかし、その頃の境内は不良少年たちがたむろするなど、現在とはだいぶ雰囲気が違っていたようだ。かつてを知る氏子の1人は「私が子どもの頃は、遊べるような雰囲気ではなかった」と振り返る。
交流の場として
現在のように様々な催しが開かれるようになったのは、前総代の産形長司さんが20年ほど前から境内の清掃を始めたことが大きなきっかけだ。台風や大雪の日を除く毎日、早朝と夕方に実施。境内が一変した。
現在も氏子会は毎日午後に集まり、清掃活動を続けている。時代の変化とともに神社の役割も大きく変るなか、「令和の時代も逗子市民に親しまれることを願う」と副総代の奥野哲男さんは話している。
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