頼朝が建立した幻の大寺院 永福寺(ようふくじ)に迫る 【1】 〜造立の経緯とその役割〜
源頼朝が建立した永福寺(ようふくじ)は、壮麗な三堂が連なる威風堂々の佇まいを誇る鎌倉屈指の大寺院であったと伝えられている。しかし室町時代に焼失して以来再建されることはなく、長い間多くの謎に包まれてきた。今回は全4回にわたり、「幻の大寺院」の姿に迫っていく。
(協力/鎌倉市教育委員会)
頼朝は鎌倉時代初期に鎌倉に鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺の3大寺院を建立した。『吾妻鏡』によると永福寺は「1189年の奥州攻めの時に中尊寺や毛越寺の壮麗さに打たれた頼朝が、滅ぼした藤原氏や弟の義経の鎮魂のために建てた」と伝えられている。頼朝は建設現場を度々訪れ、庭石の配置に指示を出し、時にやり直しさせるなど積極的に建築に携わったという。1192年から造立が始まり3年かけ完成した。
鬼門に設置
永福寺は、怨霊鎮護を目的としていたことから頼朝が居を構えた大倉御所(現・清泉小学校付近)から鬼門となる北東に置かれた。中央の二階堂を中心に薬師堂、阿弥陀堂が両脇に並び、池に向かって延びた翼廊の先に釣殿が設けられるなど、将軍の権力を示す壮大な寺院だったことがわかっている。建設に熱心に参加した頼朝だが、怨霊を恐れたのか完成後はほとんど足を運ばなかったという。
1199年に頼朝が没すると、永福寺の役割にも変化が訪れる。頼家や実朝ら歴代将軍は花見、月見、蹴鞠などの華やかな行事を催し、霊を鎮めるという当初の目的から離れた迎賓館的な位置づけへと変わっていくのである。
栄華を誇った永福寺も室町時代に焼失し、現在では地番や字に残る「二階堂」や「三堂」という名前に名残を残すのみとなっている。連載第2回では発掘調査で明らかになってきた寺院の全体像を追う。
■史跡永福寺跡…鎌倉宮から瑞泉寺方面へ徒歩10分
|
|
|
|
|
|