神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
鎌倉版 公開:2014年2月21日 エリアトップへ

頼朝が建立した幻の大寺院 永福寺(ようふくじ)に迫る 【1】 〜造立の経緯とその役割〜

公開:2014年2月21日

  • X
  • LINE
  • hatena
提供/鎌倉市教育委員会CG制作/湘南工科大学
提供/鎌倉市教育委員会CG制作/湘南工科大学

 源頼朝が建立した永福寺(ようふくじ)は、壮麗な三堂が連なる威風堂々の佇まいを誇る鎌倉屈指の大寺院であったと伝えられている。しかし室町時代に焼失して以来再建されることはなく、長い間多くの謎に包まれてきた。今回は全4回にわたり、「幻の大寺院」の姿に迫っていく。

(協力/鎌倉市教育委員会)

 頼朝は鎌倉時代初期に鎌倉に鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺の3大寺院を建立した。『吾妻鏡』によると永福寺は「1189年の奥州攻めの時に中尊寺や毛越寺の壮麗さに打たれた頼朝が、滅ぼした藤原氏や弟の義経の鎮魂のために建てた」と伝えられている。頼朝は建設現場を度々訪れ、庭石の配置に指示を出し、時にやり直しさせるなど積極的に建築に携わったという。1192年から造立が始まり3年かけ完成した。

鬼門に設置

 永福寺は、怨霊鎮護を目的としていたことから頼朝が居を構えた大倉御所(現・清泉小学校付近)から鬼門となる北東に置かれた。中央の二階堂を中心に薬師堂、阿弥陀堂が両脇に並び、池に向かって延びた翼廊の先に釣殿が設けられるなど、将軍の権力を示す壮大な寺院だったことがわかっている。建設に熱心に参加した頼朝だが、怨霊を恐れたのか完成後はほとんど足を運ばなかったという。

 1199年に頼朝が没すると、永福寺の役割にも変化が訪れる。頼家や実朝ら歴代将軍は花見、月見、蹴鞠などの華やかな行事を催し、霊を鎮めるという当初の目的から離れた迎賓館的な位置づけへと変わっていくのである。

 栄華を誇った永福寺も室町時代に焼失し、現在では地番や字に残る「二階堂」や「三堂」という名前に名残を残すのみとなっている。連載第2回では発掘調査で明らかになってきた寺院の全体像を追う。

■史跡永福寺跡…鎌倉宮から瑞泉寺方面へ徒歩10分
 

鎌倉版のローカルニュース最新6

チームで学ぶ防災

チームで学ぶ防災

バスケ協会がクリニック

4月27日

新校名は「鎌倉国際文理」

新校名は「鎌倉国際文理」

鎌倉女子大学中・高等部

4月26日

宿泊施設へ手荷物配送再開

市観光協会

宿泊施設へ手荷物配送再開

4月26日

沿線人気商品など約100点の通販開始

五輪のレガシー、鎌倉へ

五輪のレガシー、鎌倉へ

あさがおプロジェクト

4月25日

「モノレール車内に不審者」

「モノレール車内に不審者」

営業列車で初の対応訓練

4月24日

意見広告・議会報告政治の村

あっとほーむデスク

  • 4月22日0:00更新

  • 8月20日0:00更新

  • 7月16日0:00更新

鎌倉版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年4月27日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook