源頼朝は攻め滅ぼした奥州藤原氏の怨霊を静めるために永福寺を建立した。室町時代に焼失した「幻の大寺院」の姿を追うこの連載コーナー。第3回では絢爛を誇った庭園や池の様子を文献や発掘調査の結果から探っていき、頼朝が体現した極楽浄土に迫る。(協力/鎌倉市教育委員会)
発掘調査によって、堂の前にあった池は南北約200m、東西約70mの壮大なもので、ひょうたん形をしていたことがわかった。箱根などから運んだ岩が庭石に使われ、浜辺のように砂利を敷き詰めていた。北側では谷奥から引き込んだ「遣水」(小川)が池に注ぎ込み、中央にはアーチ状の橋が架かる優雅な景観を誇った。南側には池の中ほどに岩島が築かれた。
文献には永福寺建立に際して、庭園に関する記述も多い。視察に訪れた頼朝の暗殺を企てた男が捕らえられたという逸話や、家臣の畠山重忠が1m以上の岩を一人で運んだという話が伝えられている。また、頼朝は度々現場に足を運び、自ら指示を出して庭石の配置をやり直しさせるなど熱心に建設に携わったという。
季節の花咲く庭園
庭園には桜、梅、松、楓、柳などが植えられており、四季折々の草花が咲き乱れていたことが明らかになった。三代・実朝はじめ歴代の将軍たちが花見を楽しんだことが記録にあり、庭園を望む「釣殿」では歌会や酒宴も催されたという。実朝の「春待ちて 霞の袖にかさねよと しもの衣を 置きてこそゆけ」の歌が残る。
火災後の再建や補修などに合わせて庭園にも手が入れられた。「創建期」「鎌倉中期」「後期」「室町期」の4期に分けることができ、池岸の意匠や庭石の置き方が改められたという。池は徐々に縮小し、橋も時代と共に短くなっていった。火災で燃え残った仏像破片などが出土している。
室町時代に歴史から姿を消した永福寺は500年以上地中に埋もれていた。次回、連載最終回では在りし日の栄華を明らかにした発掘調査と、現在進む史跡整備の様子について追う。
■史跡永福寺跡…鎌倉宮から瑞泉寺方面へ徒歩10分
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