鎌倉のとっておき〈第16回〉 鎌倉と京都〜常盤〜
鎌倉幕府の将軍は源家が3代続いた後、京都から摂関家(=九条家)の摂家将軍を、その後、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が務めた。そのため、鎌倉幕府が誕生した頃から京都との往来が盛んになった。
また、幕府は承久の乱の後、朝廷と西国を監視するための出先機関である六波羅探題を設置。長官には北条氏一門が赴任した。
次の史料はその一端を示すもので、六波羅探題の長官として鎌倉から京都へ向かう際のものである。
「建治三年記」十二月十 三日条『奥州為上洛、今 日門出干常葉殿云々』
「奥州」とは陸奥守だった北条時村のことで、「1277年12月13日に六波羅探題として上洛するために、鎌倉の常葉(今の常盤)の屋敷へ門出したそうである」というものである。
現在の常盤には北条氏常盤亭跡が国指定史跡として保存されている。ここが時村の門出した邸宅跡という確証はないものの、吾妻鏡には時村の父である政村の別邸がでてくる箇所があり、この一族が常盤のどこかに別邸を構えていたとみてほぼ間違いないだろう。
それから「門出」を日本国語大辞典で調べると、「旅に出発する前、吉日を選んで、その日に仮に家を出ること」とある。つまり北条時村は今でいう「ゲン担ぎ」のために本邸から常盤の別邸へ門出し、その後上洛の途に就いたのである。
今回取り上げた史料はたったの1文だが、現在も残っている常盤の史跡で、かつて時村が上洛のため門出をしたのかもしれないとわかるだけでも、より身近に歴史を感じられる。 浮田 定則
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