鎌倉のとっておき〈第23回〉 室町時代の鎌倉
中世の鎌倉は幕府の成立・発展とともにあった。しかし元弘三年(1333年)、新田義貞が鎌倉に攻め入り鎌倉幕府は滅亡。その後、足利尊氏が京都に幕府を開き、武家政治の中心は京都に移った。そのため、室町時代の鎌倉は印象が薄いという人も多いのではないだろうか。
しかし実際はその後も東国の中心地として繁栄をしていた。まず足利尊氏が室町幕府を開く際の「建武式目條々」という史料に、当時の武士たちによる鎌倉に対する見方が垣間見える。「鎌倉に元の通り、柳営(幕府)を置くべきか?それとも他所にするべきか?」という文章から始まり、中でも注目すべきなのは「武家においては吉土と言うべきか?」という箇所。つまり、源頼朝が武館を構え、承久の乱で北条義時が天下を併呑したことから、武士たちにとって特別な場所(=吉土)と考えられていたのだ。
結局、足利尊氏は京都に幕府を置いたが、庶子の基氏を鎌倉に派遣した。以後、鎌倉の足利氏は関東公方と呼ばれる東国統治を担う。
2015年に市指定文化財に指定された「別願寺文書」十通には関東公方の寄進状が多く伝わっており、その繁栄の一端がうかがえる。しかし、関東公方も永享十年(1438年)の永享の乱で京都の将軍家足利義教によって壊滅的な被害を受けて以降、衰退の一途を辿ることとなる。
鎌倉というとどうしても源頼朝や鎌倉時代を中心に想像してしまいがちだ。しかし実際は、室町時代にも東国の中心地として繁栄を続けていた。関東公方ゆかりの史跡は市内の随所に残っているので、調べて訪れるのも鎌倉散策の楽しみの一つである。
浮田定則
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