鎌倉のとっておき 〈第76回〉 阿仏尼と二条が歩いた名古屋の鎌倉街道
鎌倉幕府が整備した京・鎌倉往還は、名古屋を北西から南東へと斜めに横断していました。その道が「鎌倉街道」と呼ばれ、街道の跡がわずかに残っています。
写真の道標は、熱田神宮から南東約3Kmの名古屋市南区呼続(よびつぎ)町に宿駅制度制定400年の2001年に建てられました。鎌倉時代、呼続の周りは海で浜は「鳴海潟(なるみがた)」、この道標がある台地は「松巨嶋(まつこしま)」と呼ばれました。熱田との間も海で、旅人は干潮の時に干潟を歩いたそうです。
さて、阿仏尼は鎌倉に向け弘安2年10月16日に京を出発しました。20日に熱田神宮に参拝すると、「潮干のほどなれば、さわりはなく、ひがたを行く。をりしも濱千鳥おほくさきだちて行くも、しるべがおなる心ちして」と「十六夜日記」に書いてあります。
10年後、後深草院二条が鎌倉を訪れたのは、正応2年3月下旬でした。途中、熱田から鳴海潟を渡る時に振り向くと、「霞の間よりほの見えたる朱の玉垣神さびて」と「とはずがたり」に書いてあります。
鎌倉で阿仏尼が住んだのは、「浦ちかき山もとにて風いとあらし、山寺のかたはらなれば、のどかに、すごくて、浪のおと、松の風たえず」という月影ヶ谷でした。一方の後深草院二条は、大倉の谷に住む小町殿という将軍に仕える知人の近所に長逗留しました。
三品利郎
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