鎌倉のとっておき 〈第87回〉 婿殿は鎌倉殿
源頼朝(鎌倉殿)なき後、鎌倉幕府の運営は、武士など13人の合議制で進められたが、その中の一人に頼朝の義父となった北条時政がいた。
時政は元々、罪人の子として伊豆に流された頼朝の監視役を務めた平氏側の武士だった。そんな中で、娘の政子と頼朝との結婚話が持ち上がるが、政子を平氏の武士に嫁(とつ)がすつもりでいた時政は、当初この結婚に反対したようである。
しかし、政子の強い願いとともに、頼朝が源氏の嫡流であり、将来は関東を治める武士になるのではないかとの計算もあってか、これを許すこととしたらしい。
その後、時政は頼朝の舅(しゅうと)として共に平氏と戦い、幕府づくりに尽力し、頼朝なき後には初代執権として我が子義時とともに幕府運営の中心となって権勢を振るった。
特に、頼朝の信任も厚かった梶原景時や、2代将軍源頼家の姻戚で力を持ち始めた比企能員(よしかず)といった、いずれも合議制に加わっていた有力な武士たちを次々に滅ぼしながら、幕府における北条氏の地位を確立していったのである。
しかし時政は、2代将軍頼家を廃し、源実朝を将軍に据えることに成功した後、さらにその後の将軍を画策する中で、政子や義時との溝を深め孤立。最後は出家して伊豆で隠居することとなり、政治の表舞台から消えていったのである。
時政の七十数年の生涯は、鎌倉武士の世創世に身を捧げた一生だったのかもしれない。
石塚裕之
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