鎌倉のとっておき 〈第94回〉 三浦半島の兵(つわもの)(三浦氏)
「三浦」の地名については、奈良期の歴史書『日本書紀』に既に「御浦(みうら)郡」との表記があり、後に「東、西、南の三方が海で、入り組んだ海岸(浦)で囲まれた地形」との意味から現在の表記になったという。
平安後期、三浦半島で勢力を有していたのが三浦氏だが、中でも1180年、源頼朝の平家討伐の挙兵に計画段階から関わり、その後も幕府運営の中心となったのが三浦義澄であった。
義澄は頼朝が挙兵後に大敗した「石橋山の戦い」にも加わる予定だったが、暴風雨により出陣が遅れ戦いに間に合わず、頼朝の敗走を知った後は居城の衣笠城に戻った。
その後、平家方が衣笠城に押し寄せたため、義澄は父、義明の命で頼朝が向かった安房へと脱出・合流した。
以降、義澄は平家討伐等で活躍。特に平家滅亡に至った「壇ノ浦の戦い」では、海戦能力を発揮し戦果を挙げたという。
そして義澄は、幕府が在る相模国の守護(治安・警備の職)となり、頼朝亡き後には、幕府運営を合議する宿老(13人)の一人としてその力を発揮したのである。
義澄にはこんな逸話が残る。義澄は、1192年、頼朝が征夷大将軍に任ぜられる文書を勅使から受け取る役を命じられ、御家人の羨望の中、鶴岡八幡宮にて膝行(しっこう)して文書を受け取り、頼朝に奉(たてまつ)ったのだという。このことは、幕府の御家人のトップが義澄であることを全国にアピールすることになったのである。
石塚裕之
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