鎌倉版 掲載号:2021年7月2日号 エリアトップへ

鎌倉のとっておき 〈第114回〉 頼朝の幼なじみ、東奔西走する!(中原氏)

掲載号:2021年7月2日号

  • LINE
  • hatena
三幡の縁とも伝わる岩船地蔵堂
三幡の縁とも伝わる岩船地蔵堂

 源頼朝亡き後、幕府の運営を合議して決めていた宿老13人の中に中原親(ちか)能(よし)がいた。

 親能は、明法道(みょうぼうどう)(法律の専門)の家に生まれた貴族で、幼い頃相模国(神奈川県)で過ごしたことから、頼朝とは幼なじみであった。後に公文書の管理等を行う公文所(くもんじょ)の別当(長官)となった大江広元の兄でもある。

 1180年、頼朝の挙兵を聞き、京の都にいた親能も関東に向かい頼朝と合流した。

 その後、頼朝の代官として源義経とともに上洛し、次には後白河法皇の使いとして頼朝に上洛を促すなど朝廷と鎌倉を結ぶ大役を果たしている。

 そして、源平の戦いにおいては、頼朝の弟、源範頼(のりより)に従い九州へ出向き、平氏が滅亡した「壇ノ浦の戦い」では、軍事参謀として武功を挙げ、頼朝から感状(手柄を褒める書付(かきつけ))も下されている。

 その後、親能は、京の都(六波羅)に在住してその警備に務めたが、ある時「親能が私腹を肥やして貢物を抑留している」との讒言(ざんげん)が頼朝に伝えられた。

 親能は事の真偽について詰問されたが、一切弁明せず、朝廷に上奏する草案(文書案)を作る仕事に専念した。頼朝は、その草案を見て彼の無実を悟り、これを許したのだという。

 片や親能の妻は、頼朝の次女、三幡の乳母であったことから、三幡が早くに他界(14歳)したことを受けて親能も出家したが、その後も宿老の一人として幕府運営を支えたのである。石塚裕之
 

鎌倉版のコラム最新6

すべての道は"鎌倉"に通ず(足立氏)

鎌倉のとっておき 〈第119回〉

すべての道は"鎌倉"に通ず(足立氏)

9月3日号

鎌倉武士の鑑(かがみ)、畠山重忠

鎌倉のとっておき 〈第118回〉

鎌倉武士の鑑(かがみ)、畠山重忠

8月27日号

鎌倉の音を訪ねて

鎌倉のとっておき 〈第117回〉

鎌倉の音を訪ねて

8月20日号

武士の魂、鎌倉に宿る

鎌倉のとっておき 〈第116回〉

武士の魂、鎌倉に宿る

7月23日号

鎌倉と御家人〜山内首藤氏〜

鎌倉のとっておき 〈第115回〉

鎌倉と御家人〜山内首藤氏〜

7月16日号

頼朝の幼なじみ、東奔西走する!(中原氏)

鎌倉のとっておき 〈第114回〉

頼朝の幼なじみ、東奔西走する!(中原氏)

7月2日号

意見広告・議会報告政治の村

あっとほーむデスク

  • 8月20日0:00更新

  • 7月16日0:00更新

  • 7月9日0:00更新

鎌倉版のあっとほーむデスク一覧へ

最近よく読まれている記事

バックナンバー最新号:2021年9月24日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook