鎌倉 コラム
公開日:2021.12.03
鎌倉のとっておき 〈第123回〉
鎌倉と古代の道
鎌倉は源頼朝によって幕府が開かれた後、中世都市として栄えたという印象が強い。しかし源頼朝が鎌倉に入る以前には、郡衙(郡家)が置かれ、鎌倉郡の中心といえる場所だった。
鎌倉郡衙(郡家)跡は御成小学校付近から見つかり、今小路通りの西側に位置したので、今小路西遺跡と名付けられた。
遺跡からは「糒五斗天平五年七月十四日」と書かれた奈良時代の木簡が見つかっている。これは備蓄米と考えられ、税の徴収や運上に関係するのではないかと言われている。
こうした税を集積する場所は交通の要地が選ばれた。当時の鎌倉は今よりも海面が高く、現在の鎌倉駅付近まで河川または浅瀬が入り込んでいたという。このことから鎌倉郡衙(郡家)は海からもアクセスできたとされている。
さらにかつての東海道は海道という名が示すように海路でつながり、三浦半島から房総半島へ渡る海の道が広がっていた。このため房総半島の南が都に近くなり上総、北が下総という国名になった(国名は都に近い方から上下、前中後となる)。三浦半島の付け根に位置する鎌倉は、房総半島へと続く、まさに東海道の要地だったといえる。
このように古代の鎌倉は、海の恵みによって富が集まり栄える場所であった。各地と繋がる鎌倉。今小路通りと郡衙(郡家)跡もその象徴の一つだといえる。浮田定則
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