第4回 「平太夫新田」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
市内には江戸時代の村が23ありましたが、新田という名を付けていたのは平太夫新田だけです。
新田とは、不毛な原野や大きな河川の流域などを耕作できるよう開発した土地のこと。戦国時代には戦国大名が、江戸時代には幕府や藩、村、農民、町人などが開発を進めました。特に江戸時代に多く行われ、全国の耕作地は倍増したといわれています。平太夫新田は松下平太夫という者が開いたといわれています。
その松下平太夫の供養塔は、今も鎮守・八幡神社の境内に祀られており、石塔の正面には「三諦院法源居士 松下平太夫」の文字が彫られています。平太夫新田ではこの松下平太夫を偲んで、毎年11月30日に、塔の前で供養を続けています。
「新編相模国風土記稿」によると、「民戸十」とあることから平太夫新田が小さな村だったことが伺えます。1855年(安政2年)は村人70人、1886年(明治19年)には家数13、人数61と記録にあります。
新田とはいうものの、村の土地は水田に向かず、主な生業は、畑作と川漁でした。相模川は天災の元でしたが、生活の糧をもたらすものでもあったようです。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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