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公開日:2022.02.24

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鎌倉殿と平塚の七人 Zoom up
第1回 真田与一義忠と岡崎四郎義実

  • 岡崎義実公像(岡崎公民館)

  • 真田与一ゆかりの力石(天徳寺=平塚市真田=境内)

 名字の異なる二人ですが、実の親子。相模の名門豪族三浦氏の一族です。一族の本拠地三浦半島から離れて岡崎と真田を所領として、地域の開発を進めていたと考えられます。

 石橋山の合戦で、俣野五郎景久を組み伏せながらも血糊で固まった刀が抜けず討ち取られてしまう悲運の与一は怪力のキャラクターでもあります。舞の演目「夜討曽我」では与一がまだ10代の頃のエピソードが語られています。坂東随一と呼び声の高い力自慢の俣野五郎が大岩を持ち上げて、与一に投げつけようとします。一度は断る与一ですが、三浦の名折れとまで言われれば仕方ありません。投げられた大岩を受け止めて五郎に投げ返し、たまらず五郎が取り落とす、という展開です。石橋山の因縁に繋がる伏線として考えられた話なのでしょう。与一の強さが後日の悲劇を際立たせます。

 父親の岡崎四郎は”悪四郎”と呼ばれた豪傑。悪とは「強い」という意味で呼ばれるので、若い頃はブイブイ言わせていたのかもしれません。かつて源頼朝の父義朝が大庭氏が管理する荘園「大庭(おおばの)御厨(みくりや)」に乱入した事件、従ったのは三浦義明と中村宗平と記録されていますが、義明の弟で宗平の娘婿でもあり、当時33歳であった義実も同行していても不思議ではありません。

 そんな義実の優秀な跡取りを失った落胆はどれほどであったか。頼朝挙兵の時に既に69歳であった義実に対して25歳の与一はずいぶん遅い子宝です。与一という名からすると以前にも子を失っているのかもしれません。

 建久六年(1195年)三月、東大寺の落慶法要参列に向かう頼朝のパレードに義実の姿があります。そして彼の2列前には与一の嫡男とみられる「岡崎与一太郎」の名前が記されています。きっと孫の凛々しい武者ぶりに与一の姿をだぶらせていたことでしょう。

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