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公開日:2022.08.25

連載
鎌倉殿と平塚の七人 Zoom up
第7回最終回 土屋次郎義清

  • 鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)(上)と寿福寺

 平塚市博物館が公式YouTubeチャンネルで公開している、鎌倉幕府創業に関わった郷土人物を描く動画「鎌倉殿と平塚の七人」。本連載では本編動画と関連したエピソードを紹介します。

◇  ◇  ◇

 土屋次郎義清は岡崎四郎義実の次男、真田与一義忠の弟です。叔父にあたる土屋三郎宗遠の養子となり、石橋山の合戦には宗遠とともに参戦します。合戦での動向は伝わっていませんが、2年後には源頼家の誕生に際して畠山重忠、和田義盛、梶原景時らと肩を並べて、土屋兵衛尉として護り刀を献上しており、既に御家人として頭角を現していたようです。

 そんな義清ですが、その人生は石橋山の合戦で一変します。兄の真田与一が討たれ実家の岡崎家は嫡男を失います。土屋家では宗遠の実子弥次郎忠光が討ち死にしたとみられ、義清は土屋と岡崎の両家を支えることになります。そして合戦から4年後、土屋宗遠に実子弥三郎が生まれます。岡崎義実がかつて源義朝の館があった亀谷の地を義清に相続していることを考えると、義清は弥三郎のために土屋家とは距離を置いていたのかも知れません。一方、岡崎家では与一の子実忠が成長します。

 和田義盛の乱で義清は4人の子どもとともに和田義盛につき、和田方の主力として奮戦しますが、鶴岡八幡宮の赤橋で落命しその首は寿福寺に葬られます。吾妻鏡が記す反乱軍の死者には「土屋の人々」として薗田七郎という上野国の足利氏の名もありますから、義清は跡取りが成長した土屋家、岡崎家を離れ独自の一派を形成していたと考えられます。乱の後、岡崎家は所領を失いますが土屋家には処分が下っていません。義清は恩ある土屋家に類が及ばないように配慮しながら動いていたのでしょう。生き残った土屋弥三郎宗光は四代将軍藤原頼経のそば近く仕え、後に北条泰時が整えた評定衆の一人にも加わり、名家として続く土屋家の基礎を築いていったのです。

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