日本国憲法の制定過程から学ぶ 大磯の澤田美喜という女性 〈寄稿〉文/小川光夫 No.73
澤田美喜は、明治34年(1901年)、岩崎財閥三代目社長岩崎久彌の大豪邸(現在の旧岩崎庭園)で生まれ、お姫様のように育てられたが、自由奔放な性格で何度も見合いを断り両親を困らせたこともある。お茶の水の東京女子高等師範学校の幼稚園に入り、女子高等学校に進んだものの中退して津田梅子に英語を学ぶ。大正11年(1922年)7月1日、美喜は二十歳になって外交官であった澤田廉三と結婚するが、その頃にクリスチャンとなっている。結婚後は廉三に連れられてスぺイン、アメリカなど世界各国をまわり、外交官夫人として欧米の上流社会を満喫した。そうした中で、ロンドン勤務に随行したある日、美喜は夫に誘われて訪問した孤児院「ドクター・バーナードス・ホーム」で生き生きと生活をしている子ども達や、ボランティアの人達と会って感銘を受ける。
戦後、財閥解体が行なわれ、美喜の父親の本郷茅町(ほんごうかやまち)だけでなく、麹町にあった自分達の家屋は接収された。巷では貧困と餓えで苦しんでいる人達が路上に溢れ、黒い肌、白い肌の嬰児たちが母親に連れられて置き去りにされ、その死骸が至るところで発見されるようになった。それらは日本に進駐した米兵と日本女性との間に生まれた混血児であった。こうした混血孤児を護るために美喜は、混血児達の養育施設(エリザベス・サンダース・ホーム)を立ち上げ、生涯彼らのために命を捧げることになる。しかし世間の偏見と差別意識は一向に無くならなかった。黒い肌の子どもは大磯の海水浴場にも入ることさえ禁止されていた。そのため美喜は、子どもたちがエリザベス・サンダース・ホームを巣立った後、社会での偏見と差別に堪えうるだけの免疫を育てるために、厳しい躾をおこなうようになる。こうしてエリザベス・サンダース・ホームから巣立った混血児は2000人を超える、と謂われている。
澤田美喜の「思い遣る心、気持ち」は、現在も養護施設にいる職員は勿論のこと、そこで学ぶ子ども達だけでなく卒業生にも引き継がれている。
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