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戸塚区・泉区 コラム

公開日:2026.01.15

第121話 江戸時代のハイウェイ〜東海道の姿〜
とつか歴史探訪

  • 戸塚の宿場を行き交う人々『相中留恩記略』

 徳川家康の遺訓といわれる『家康百箇条』には主要街道について「大海道は其の幅六間」と記されています。6間は約11m、現代の片側2車線、往復4車線の道路に迫る道幅です。全国にこの規模で街道を整備するとなると莫大な財政負担になるはずですが、実際はどうだったのでしょうか。

 幕府が編纂した地誌『相模国風土記稿』の戸塚宿の項を見ると「東海道東西に貫く、幅凡そ四間ばかり」とあります。現戸塚区内では品濃村など山間部で3間とされているほかはおおむね4間(約7・2m)程度となっています。現在の往復2車線の道路より広く、両側に並木もあって、当時としては堂々たる街道だったでしょう。歩行者は勿論、馬や駕籠のすれ違いにも不自由はありませんでした。

 江戸時代の中ごろオランダ商館付医師として東海道を往復したツュンベリーは、街道の道幅が広く路面の状態が良いことを述べ、また日本には左側通行の規則があって安心して歩けることに感心しています。当時のヨーロッパにはそのような規則がなく、人が馬車にひかれる等の事故が多発していたそうです。通行規則に関して日本は先進国だったわけですね。

 参勤交代をはじめ、朝鮮通信使、琉球使節、オランダ商館長の江戸参府、更には庶民の伊勢参りなどの旅も整備された交通インフラに支えられてのことでした。

 ハイウェイというと高速自動車道路が思い浮かびますが、本来は都市などを結ぶ幹線道路を意味します。江戸時代の東海道も英語ではハイウェイです。東海道は大正・昭和時代の道路近代化に至るまで、東西日本を結ぶ第一級ハイウェイであり続けました。

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