日本国憲法の制定過程から学ぶ 大磯町の教育に尽くした伊東希元 〈寄稿〉文/小川光夫 No.85
昭和21年7月30日の芦田小委員会第5会議においては、未来を切り開く青年者の教育が重要であるとして、午前中の殆どの時間を教育に関する時間に充てたことは前回述べた。今回は大磯町の教育に尽くした伊東希元(きげん)について述べることにした。
伊東希元は、天保8年(1837年)に大磯町高麗の浄土真宗善福寺の住職の子として生まれた。向学心の強い希元は湯島の聖堂で漢字を学び、福沢諭吉からも西洋事情を学ぶ。安政4年ごろから僧職のかたわら近隣の子弟を教育し、明治6年(1873)年には現国府小学校の前身である思文館(しぶんかん)、さらにはその翌年にできた分校(現二宮小学校)の校長になった。
その後の自由民権運動の高まりの中で、中等教育(高等学校)の大切さを痛感した希元は、明治12年に善福寺境内に私塾の男子敬業学舎を開設する。その頃、小田原には五郡(足柄上、足柄下、大住、淘(ゆる)綾(ぎ)、愛甲)共立中学校があったことから、明治16年に希元は男子敬業学舎を閉鎖し、五郡共立学校に奉職した(共立学校は翌年閉校となる)。さらに希元は、明治19年に金目村に足柄上、大住、淘綾の三郡共立学校ができると、その校長となった。その後三郡共立学校は改組して中郡立農学校となったが、県立平塚農学校の設立と相成って、明治35年、中郡共立学校も廃校となった。
敬業学舎の復活を願っていた伊東希元は、中郡共立学校の廃止2年前の明治37年に、恩文館時代の子弟であった二宮の伊達時などを誘って大磯女子敬業学舎を開設した。大磯女子敬業学舎は、「良妻賢母」を育成することを目的にしたもので、希元は、10年もの間、私費を投じて経営にあたった。やがて大磯女子敬業学舎の生徒数は増え続け、1909年(明治42年)には、女子生徒は200人余りにもなったと、されている。
希元は、73歳で永眠するが、その生涯を教育に捧げた功績は輝かしいものがある。
大磯女子敬業学舎は、1946年、現在の神奈川県立平塚江南高等学校の前身である神奈川県平塚高等女子学校が創設されたことによりその使命を終えることになった。
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