日本国憲法の制定過程から学ぶ 織田信恒子爵の八百長質疑 〈寄稿〉文/小川光夫 No.95
8月26日から8月30日まで貴族院本会議が開かれ、この席上、政府は「修正帝国憲法改正案」を上程した。この会議で宮沢俊義東大教授より天皇制についての問題や、南原繁元東大総長より政府の手続きについての批判などもあって、9月2日から9月26日まで特別委員会が開かれることになった。
一方、9月20日、極東委員会第3委員会ではソ連代表や中国代表だけでなく、カナダ代表パターソン博士においても、「芦田修正がなされたまま、憲法が通過したのならば…陸軍大将や海軍大将が出現する可能性が考えられる。しかし、もしすべての大臣がシビリアンでなければならないという条項が憲法に入れられるのならば、…疑念は何ら存在しなくなるだろう」と芦田修正への対応が論議されていた。極東委員会のこのような雰囲気はワシントンにも伝えられ、9月22日、ワシントンのピーターセン陸軍次官からマッカーサー元帥あてに電信が発せられた。
当時、日本では貴族院で憲法草案の審議中であったが、マッカーサー元帥はホイットニー将軍とケーディス大佐を吉田首相のもとへ派遣し(9月24日)、「成年者による普通選挙の保障」と、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、シビリアンでなければならない」との規定をそれぞれ追加することを要求した。吉田首相は白洲次郎と相談し、大磯の原田熊雄の京都大学からの友人であった貴族院の主流会派・研究会の幹部織田信恒子爵に八百長質疑を行わせることにした。
織田は、貴族院の本会議場(9月26日)で「新憲法の一番の山は、国際平和主義であり、…総理大臣とか、国務大臣とか、政治の最高位に立つ人が平和に反するような人ではあれば困る…日本は武装を解除していますから、…将来、総理大臣とか国務大臣は、昔みたいな軍人がなるということは避けて、シビリアンによって、その地位がしめられるというのが一つの生き方だろうと思います。この点について、ご意見を伺いたいと思います」と述べた。筋書きどおりに議長は、この質疑はもっともであるとして、さっそく委員会を設置することを確約した。シビリアンをどのように訳すべきか、議論を煮詰めるために、橋本実斐(さねみ)伯爵を委員長とする特別小委員会が設置され、1946年9月28日より10月2日の間に合計4回の会合行なうことになった。この出来事は、日本国憲法が公布される1カ月前のことであった。
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