日本国憲法の制定過程から学ぶ 片山政権と炭鉱国管 〈寄稿〉文/小川光夫 No.102
片山政権は、革新と保守の連立であったが、連携と云うよりも足の引っ張り合いであった。社会党右派の西尾派は民主党左派である芦田派と結び付いたが、社会党左派の鈴木茂三郎と加藤勘十は共産党寄りで、民主党右派の幣原は自由党の立場に立っていた。しかも戦後の日本経済はインフレと財政難という超難問を抱えるなど深刻な経済状態にあった。片山内閣は、こうした難問に対処するため食糧緊急対策や賃金物価の全面改定などを掲げたが、しかし、それは保守陣営からも「通貨面を重点し過ぎて生産面を軽視している」、「吉田政権政策の踏襲に過ぎない」など、と批判が相次いだ。さらに片山内閣は、膨大な補正予算の編成と並行して炭鉱国管法案の立案審議を進めたが、これが社会党と民主党との対立を激化させることになった。GS(民政局)にとっても社会党にとっても炭鉱国管は日本を社会主義化するための先鞭とする最大の政策であったが、しかし民主党にとっては、国有国営化などは当然認められるものではなかった。また社会党が労使同数の決議機関である生産協議会の権限拡大を主張したことに対して、民主党は企業主の権限拡大を主張するなどイデオロギー上の対立があった。また自由党も社会主義化を警戒して法案の廃棄を目指し、炭鉱業者も社会主義化に危機感を抱くなど国会は混乱した。6月28日、社会党政権が誕生してから1ケ月が過ぎてようやく炭管法案が閣議に提出されたが、9月25日に国会に提出されてからも自由党と民主党からの反対の狼煙があがり国会は大混乱となった。それは民主党の鉱工業委員の西田隆夫、長尾達生、岡部得三など4名が炭鉱業者であったことも影響している。結局、炭鉱国管法案は3年間の時限立法ということで意見が纏まり、委員会では否決されたものの衆参本会議でようやく成立に至った。
ところで、当時、追放令が政治に利用されることが多くあった。自由党の吉田首相が鳩山一郎の追放に関わっていたとの噂があり、鳩山だけでなく河野一郎、石橋湛山などの追放解除が遅れたことについても裏があるのではないかと囁かれていた。それは片山社会党政権においても同様であった。炭鉱国管問題で政治が混乱していた頃、社会党内部では西尾官房長官と平野農相との対立が生じていた。自由党寄りの平野を快く思っていない西尾は、公職追放令該当者として片山首相を通して罷免権を発動させた。こうして平野は中央公職適否審査委員会で資格審査されることになるが、委員会では社会党委員以外は平野を被該当者とした。それに不満な西尾はGSのケーディス次長やネピア追放担当官などに相談した。ケーディスは牧野中央公職委員長を呼びつけ、審査のやり直しを命じて再審査(1947年12月29日から翌年の1月9日まで3回)を行わせた。しかし再審査においても平野は被該当者となったことから、牧野はGSの要求に従って審査委員に根回しを行い、その後行われた再審査(1月13日)で平野を1票差で公職追放とした。
〈このシリーズは110回で終了となります〉
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