日本国憲法の制定過程から学ぶ 第三次吉田内閣のワンマン体制 〈寄稿〉文/小川光夫 No.106
いよいよ総選挙が近づいてきた。吉田は自由党を民主自由党に改め、四百十九名という大量の候補者を立てた。それに対して民主党や社会党は、昭和電工疑獄や保守派と革新派との対立などで十分な候補者を立てずにいた。それでもおおかたは民主党と社会党で過半数を得るだろうと予測されていた。民政局(GS)のケーディスは、この選挙で吉田政権にダメージを与え民主党、社会党に有利にするために炭鉱国管での収賄の容疑で同士クラブの田中角栄や田中万逸などを逮捕した。こうした状況に困った吉田は民主党の犬養健(父は犬外毅)と密かに会って民主党との連立内閣を模索した。しかし、予想に反して選挙結果は、民主自由党が二百六十四名という大量の当選を果たし圧勝であった。ちなみに民主党は六九名、社会党は四十八名、共産党三十名という結果であった。この選挙で、社会党の片山哲、西尾末広、加藤勘一、民主党の楢橋渡など大物政治家が落選した。国民が総司令部に追従し、失政と汚職に塗れた政権を嫌ったことがその要因であったが、戦後の日本の政治家達のやることはいつも失政と汚職の繰り返しである。この選挙結果を受けて、民主自由党内では単独政権が浮上してきた。しかし吉田は、日本の政党政治はイギリス方式の二大政党制であることが望ましい。これからは民主自由党と社会党で政権交代をおこなっていくべきであり、まずはとりあえず民主党との連立を組むべきであることを主張した。これに対して民主自由党の幣原喜重郎や大野伴睦などは反対したものの吉田は動じなかった。一方、民主党内も複雑であった。犬養健を中心とする連立派と芦田を中心とする野党派が激しく対立し、互いに議員総会を開いて野党派は犬養健、連立派は芦田など対立する議員の離党を勧告しあうなど、民主党は分裂を余儀なくされた。
3月16日、認証式が終了し、第三次吉田内閣が明らかになった。首相・外相に吉田茂、蔵相に池田勇人、法務総裁に植田俊吾、運輸相に大屋晋三、国務相に樋貝詮三などがその顔ぶれであるが、ここから吉田のワンマン体制が築かれていった。吉田は内閣にはできだけ党人を登用せず閨閥と官僚出身との議員で側近を固め、しかも熊本旧制五高の同級生で、次官を経験した親友同士の池田勇人と佐藤栄作、後の総裁候補であった内閣官房長官増田甲子七(かねしち)と広川弘禅などを巧みに競争させて民主自由党内のテェック・アンド・バランスを図った。
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