二宮ゆかりの画家 連載第12回 二見利節(としとき)・その生涯
離 婚
昭和三十四年長女の矩子の高校入学が迫って、生活に余裕がない芳枝は結局郷里福岡に帰って、姉の嫁ぎ先である医師の手伝いをしながら子供を教育することにした。しかし、それには条件があった。帰るには「きれいさっぱりとして来い」とのこと。すなわち、離婚して帰れということであった。
利節にしても、妻芳枝にしても、離婚せねばならぬほどの問題はなかった。お互いに将来はめんどうをみねばならないという軽い考えのもとに、離婚手続きをしたのである。利節は荷物を自分で荷造りし、リヤカーに積んで日通まで運んだのである。
画風の変遷
昭和五十二年十月、平塚市の博物館において行われた「二見利節展」の説明書に執筆された森田英之は次のように述べている。
「戦後の二見芸術は昭和三十三年頃までの十年間は次第に文展特選時代、春陽会時代の比較的形態のデオルマッションの少ないオーソドックスな画風から、地滑りを起こすかのようにピカソ、ブラック、ポール・クレー、シャガール、モンドリアン、ムンク、ボロック、ジャンデュ、ビュフェ、カンディンスキー等の絵画の造形理念を積極的に模倣しながら取り入れてゆくのである。昭和三十一年国画会展出品の『工作机』は明らかにキュビズムヘの移行であり、戦前の作風もほとんど感じられない。昭和三十三年にはクレヨンとガッシュを使った色彩の鮮やかなコンポジションを展開し、極度に抽象化した中に、かろうじて具象形態を残す強烈な色彩のコントラストの画面を小品で試みている」
〈つづく〉
※「二宮近代史話」(昭和60年11月刊行)より引用
二宮町にアトリエを構え、創作活動に打ち込んだ洋画家二見利節(1911〜1976年)の生涯を紹介しています。
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