明治150年記念連載 大磯歴史語り 第5回「伊藤博文【5】」文・武井久江
今回で伊藤博文は最終回です。伊藤は、どんな政治家だったのでしょうか?
【攘夷派の志士から初代総理大臣へ】吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作らとの英国公使館焼き討ちなど攘夷活動を行った後、英国へ留学(長州ファイブ)し西欧文明に接して開国派に転じます。藩閥を超えた協力関係を築き、政権の中枢へと進みます。
【立憲政治導入の父】日本の近代化のために憲法に基づく立憲政治を確立した。自らの政党である立憲政友会を創設。
【韓国統監府の初代統監】英国留学・岩倉使節団・欧州への憲法調査を通じて外交力を磨き、日清・日露の交渉で毅然とした姿勢で臨みましたが、韓国併合は評価が分かれることになりました。
その伊藤を支えた四天王が、末松謙澄(伊藤の次女の夫)、伊藤巳代治・金子堅太郎(2人とも伊藤の総理秘書官)、井上毅(政策ブレーン)でした。
伊藤にはいくつかの名言が有りますが、「財産・生命・名誉を全うするのは人の権利なり、故に政府を作って、一個人民の人権を保護する、之を政事(政治)と謂う」
また、ふぐは飲食を禁じられていましたが、たまたま食べる機会が有り、美味しかったことから、山口県に働きかけふぐの解禁を行いました。
明治38年(1905)12月21日に初代の韓国統監に任命され、約3年半つとめて明治42年6月に辞任、帰国して枢密院議長に返り咲き、その4か月後の10月26日(大磯駅を10月14日に出立)の朝、黒竜江省のハルピン駅に降り立ち、午前9時30分伊藤は銃弾に倒れました。遺骸は11月1日に東京・霊南坂の枢密院議長官邸に帰り、4日に日比谷公園で国葬が執り行われた。また、大磯でも11月26日に大運寺にて伊藤公の法要が行われ、その時のお位牌が今も大運寺本堂に安置されています。戒名は「文忠院殿博誉古林春畝大居士」。68歳没、本当にお疲れ様でした、そしてご冥福をお祈りします。お墓は、東京の品川に伊藤家の墓所が有り、妻・梅子と眠っています。(敬称略)
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