明治150年記念連載 大磯歴史語り 第12回「大隈重信【4】」文・武井久江
大隈は大磯に別邸を構えた翌年に、日本初の政党内閣、第1次大隈内閣(隈板内閣)を組閣し第8代総理大臣に就任しました。61歳の時です。明治22年に右足を失ったとはいえ、大隈の政治に対する情熱はいささかも衰えませんでした。この内閣は、板垣率いる自由党、大隈率いる進歩党(元は立憲改進党)で憲政党として立ち上がりましたが、内部争いによって4カ月であっけなく倒れ、党も分裂してしまいました。彼ほど政治の舞台、下野を何度も繰り返した人はいないと思います。大隈は憲政本党総理におされますが、70歳に達した明治40年(1907)党勢が振るわない責任をとって党を離れます。党大会で「年をとっても、私はこれからも国家の為に、死ぬまで政治を辞めない。政治はわが命である」と述べた3カ月後に、創立25周年を迎えた早稲田大学の総長に就任しました。彼はここを足場に、不自由な体ながら全国で講演活動を重ね、世界の名著の翻訳事業など各種の文化事業に努めました。ところが大正3年(1914)、77歳の大隈は再び政界に引き戻され、第2次大隈内閣を組閣することになります。
こんな彼にも弱みが有りました。大隈は演説(ガイドツアーに参加しますと大隈の生声が聞けます)・座談の名人で口のたつ人でしたが書には全く自信がなく、公式文書の署名以外は筆を執りませんでした。その理由は、子どもの時に先生に「とても物になる字ではない」と言われたため。ある時、何とか大隈の書を手に入れようとした人が一計を案じ、大隈の孫に「大隈という字をどう書くか、お爺さんに教えてもらいなさい」と紙を渡したところ、大隈は書こうとしてふと思い、目の前の火鉢の中の灰に火箸で書いたとか。紙に残すことは出来ませんでした。また、妻・綾子にも頭が上がらなかったとか。度量の大きさと心配りで夫をサポートし、大隈に「うちの番頭」と言わしめた方です。早稲田大学の大隈庭園には、綾子像が有ります。では次回。(敬称略)
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3月29日