明治150年記念連載 大磯歴史語り 第15回「西園寺公望【2】」文・武井久江
前回でお話しした西園寺のパリ留学は、大村益次郎等の推薦により、官費でフランスに留学しました。その期間は9年半に及びましたが、その間に世界的視点から日本を見る精神を養い、明治4年(1871)2月7日にパリに着いた西園寺が直面したのは、パリ・コミューン(革命政府)の成立と壊滅でした。
ドイツとの戦争に敗れたフランスは混乱していました。そんな折、西園寺は帝国主義列強間の争いに対抗するには、日本は健全な民権主義を尊重し、欧州列強の制度・技術・文化を取り入れるべきだとの思いを強くし、明治8年(1875)からパリ・ソルボンヌ大学法学部で学びました。政治学者のエミール・アコラスに学び、帰国したら政治家になれと勧められ、また同じ下宿に暮らしたクレマンソーはのちに首相になり、大正8年(1919)パリ講和会議で日本首席全権の西園寺と再会します。この当時、これほど長期間の海外経験を持った政治家はいなかったと思います。この留学時代に中江兆民・松田正久らと出会い交流を深めました。留学中に国が公費留学生を減らす方針が出た時は、公費を辞退し私費留学生になりましたが、資金が尽きてくると安い刀を名刀正宗と偽って売りつけ、その刀は「西園寺正宗」と呼ばれたとか?
明治13年(1880)10月21日に帰国した西園寺は、30歳になっていました。翌年に留学経験を生かして「東洋自由新聞」の社長に就任しましたが、政府や宮中で物議(考え方が日本政府と違っていた)を醸し、廃刊となりました。西園寺の政治との関わりは、明治14年11月に参事院議官補に任じられたことです。参事院は伊藤博文の提唱で、法律規則を審査する組織で同じ公家の岩倉具視が西園寺を推挙したのです。明治15年3月4日伊藤が憲法調査に欧州に派遣されるにあたり、西園寺に随行の命がおり、伊藤との親密な関係はこの欧州随行中に始まりました。次回は、興津の坐漁荘、御殿場の別邸についてお話しします。(敬称略)
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3月29日