明治150年記念連載 大磯歴史語り 第31回「原敬【6】」文・武井久江
大磯での原の過ごし方は、陸奥の死後、別荘をそれほど活用しなくなりました。大磯を訪問する回数自体が減っていったのは、明治34年(1901)〜38年の間は、北浜銀行頭取、大阪新報社長を務めたため、大阪にいることが多くなったのと、1902年に代議士に初当選して以降(以後7回無競争で当選です)、原が夏は地元である盛岡で過ごすことが多くなったことが影響しています。また、伊藤が1905年に韓国統監に就任し、大磯を離れる期間が増えたこと。1906年に第1次西園寺内閣が成立し、内相に原が就任した頃から西園寺との関係が微妙になったことも、大磯から足が遠のく要因になりました。結局原は、1907年4月に大磯の別荘を売却し、その後、1913年に鎌倉郡腰越津村(現・鎌倉市腰越)に「冬期家族の赴く所」としての別荘を利用するようになりました。大磯から腰越に別荘が変わるころ、貞子と離婚。岩谷堂出身の菅野弥太郎の長女・あさと再婚します。後にこの方が、賢婦人として原に寄り添うことになります。
ここから原は、内相を2期(第2次西園寺内閣・山本内閣)務めた後、大正3年(1914)第3代政友会総裁に就任します。この時、後継の第2次大隈内閣が貴族院との対立から総辞職、山縣の推挙によって成立した寺内内閣も、大正7年(1918)の夏に起こった全国的な米騒動によって倒れました。原は、山縣が藩閥による内閣を組織するようであれば加藤率いる憲政会と提携して護憲運動(大正時代に発生した立憲政治を擁護する運動)を起こすと、山縣に圧力をかけ、西園寺は原の気持ちをくみ、山縣と会見し、ついに原を次期総理大臣に推薦することを同意させました。原に組閣の大命が下り、大正7年9月29日原内閣成立、ここに日本初の爵位を持たない「平民宰相」が誕生しました。次回で、原内閣が行った政策について語ります。その実績を見てさすがの山縣も認めざるをえませんでした。この結果は、何十年後の吉田茂も認める発言をしています。今回はここまで。(敬称略)
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