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明治150年記念連載 大磯歴史語り 第41回「吉田茂【8】」文・武井久江

公開:2020年3月27日

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旧吉田茂邸
旧吉田茂邸

 敗戦直後の昭和20年9月東久邇宮内閣の外務大臣に迎えられ、政治家として第1歩を踏み出した吉田は、現在公開中(今はコロナで不特定な公開)の大磯での旧宅を住まいとしていました。吉田の養父である健三が明治20年頃(土地購入は、明治17年)より大磯に別邸を構え、健三亡き後、財産を継ぎ大磯の別邸も彼のものとなりました。養父が築いた莫大な財産を外交官時代に使い果たしたと言われていましたが、大磯の邸宅を手放すことはありませんでした。

 大磯の邸宅を本宅と定めたのは昭和20年。昭和26年サンフランシスコ講和条約を記念して、庭園入り口に「兜門」を設けました。サンフランシスコ会議の首席全権として臨んだその時、すでに兜門設置を考えていました。昭和21年から昭和29年に5期総理大臣を務め、その後大磯に隠棲したのちも政財界の要人を始め様々な人々が大磯を訪れることになります。その邸宅を「海千山千荘」と名づけ、本邸は幾たびも増改築が繰り返されました。なぜかというと、当時外国のお客様を迎える迎賓館がありませんでした。彼は私財をなげうって迎賓館を作りました。近代的な数寄屋檜造りの本邸は、外国のお客様にとても喜ばれました。建築家・吉田五十八の設計のもと、京都の宮大工により建築され、日本庭園は、世界的作庭家・中島健が設計したものです。邸宅のお話や、お庭については次回に続けます。

 なぜ吉田内閣が退陣することになったかに少し戻ります。朝鮮戦争(昭和25年から28年まで)の時、日本には再軍備するようにアメリカ側の圧力がありましたが、彼はがんとしてはねのけ、戦争放棄の憲法を守って経済復興に力を入れました。しかし、吉田内閣に対する国民の支持は講和条約調印の頃を頂点にさがりはじめました。また、1954年に側近が関係した造船疑獄事件(政界・財界・官僚の被疑者多数が逮捕された)が明るみに出ると、国民ばかりでなく党内からも批判を受け、その年の末に首相の座を降りたのです。では、次回。(敬称略)
 

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