明治150年記念連載 大磯歴史語り 第42回「吉田茂【9】」文・武井久江
昭和29年(1954年)に首相の座をおりた吉田は、その後政治の表面に出ることはありませんでしたが、1960年代に門下(吉田学校13人衆)の池田勇人、佐藤栄作が相次いで首相になりました。2人には特に目を掛けていて、大磯の地を戦後迎賓館を作るときに、庭は池田君(芝生で園遊会が出来るように)、中池の石(高知・桂浜の五色石)は高知の城西館の女将に、七賢堂(移転当時は五賢堂でした)は佐藤君(七賢堂の扁額は彼の作です)と、3人にお手伝いをお願いしました。今回は色々なエピソードを入れながら彼の隠遁後のお話をしていきます。2人が首相になったことで彼は元老のような存在となり、政府や自民党に大きな影響力を持ちました。大磯の建屋の2階の書斎に、皆様もご存知のように首相官邸に繋がるといわれた、黒電話が置いてあります(ダイヤルが無く、受話器を上げるだけで首相官邸に繋がる)。凄いことですね。コロナが終息して落ち着かれたら、ぜひ建屋の見学にいらして下さい。今月は休館です。彼は、ウイットとユーモアに満ちた独特の魅力を振りまき、「白足袋宰相」などと呼ばれ、国民に親しまれました。大磯町で行ったオブジェ祭の吉田のオブジェは、「白足袋」「バカヤロー」「葉巻」の3点でした。
吉田は終戦間近い昭和20年4月から1ヶ月半ほど憲兵隊に捕らわれ、刑務所暮らしをしたことがありました。その当時の話で、戦争反対を唱えていた吉田は憲兵隊司令部から陸軍刑務所に移され、看守からは毎日「きさま」呼ばわりをされていましたが、ある日急に「閣下」とかわったため、「これは近く刑務所を出られるな」と思っていると、翌日出所を許されました。戦後、外相になったとき、吉田を調べた憲兵将校や刑務所の看守が戦争犯罪人として追われ、助けを求めに来ました。それを救い、なかには就職の世話までしました。「人間・吉田茂」たる人でした。冗談に、「1度刑務所に入らないと、人間は一人前ではない」とも。では、次回。(敬称略)
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