明治150年記念連載 大磯歴史語り 第45回「吉田茂【12】」文・武井久江
吉田の洗礼名は「セント・トーマス・モア」、そして戒名は「叡光院殿徹誉明徳素匯大居士」で葬儀は2度行われました。昭和42年(1967)10月20日に大磯の自宅・銀の間にて亡くなられたのは皆様も良くご存知かと思います。銀の間から、富士山を見ながら最期の時を迎えられ、静かに息を引き取られました。(コロナが終息すればこのお部屋の見学もできます)89歳の生涯でした。東京カテドラル聖マリア大聖堂で吉田家の葬送ミサが行われたのは、ご逝去後3日目の10月23日でした。吉田家の密葬葬儀ミサが行われた東京カテドラル聖マリア大聖堂は戦災で焼失し、その再建時に募金後援会が組織され、吉田はその会長を引き受けて、信者の方々と共に募金活動に力を尽くされました。その後、吉田はローマ法王から未信者では最高の勲章を授けられ、その時ご一緒した神父様と「これで私も天国に行けるだろうね」、「もちろんですよ。その勲章を付けて行かれれば天国も木戸御免でしょう。雪子夫人がお待ちですよ」と言葉を交わしました。
その後、戦後最後の国葬となった儀が、10月31日に日本武道館で行われ、吉田はご家族や佐藤首相らに送られて、青山墓地に埋葬されました。当時墓石は、吉田の墓石右側に雪子夫人、左側に愛孫麻生次郎の十字架があり、その間でセント・トーマス・モア、吉田茂は永遠の安息のなかに眠っておられるはずでした。青山墓地は、吉田に縁のある方々が多く眠っています。なのでこの地を選ばれたのだと思います。義理ではありますが吉田を支えた人たちです。雪子夫人の父・牧野伸顕、祖父の大久保利通、雪子夫人の母方の祖父・三島通庸、吉田家だけではなく麻生家の墓もありました。ですが、現在は改葬されて青山墓地にはありません。4〜5年前になりますが、この方たちのお墓参りに行ってきました。吉田の墓石があったところには、麻生太賀吉・和子のお墓がありました。何故だか涙が止まりませんでした。吉田のお墓は、何処にいってしまったのでしょうか。彼のお墓を見るとき、現代の私達にも考えさせられる諸事情が身につまされます。次回に続きます。(敬称略)
|
|
|
|
|
|