大磯歴史語り〈財閥編〉 第26回「三井八郎右衛門高棟【5】」文・武井久江
初代理事長に就任した団琢磨は、安政5年(1858年)福岡藩士の子に生まれました。旧藩主・黒田長知に随伴する海外留学生に抜擢され渡米します。マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び、帰国後、三池炭礦に赴任しました。ところが、明治政府所有だった三池炭礦を民間に払い下げることになり、1887年に三井物産が落札、団琢磨もそれに伴い三井に入社しました。それまで三池炭礦は稚拙な設備で採炭しており、団は幾度となく設備増強を建言しましたが、政府筋は取り合いませんでした。しかし三井の買収後、団の申し入れは受け入れられ、三池炭礦は良質の石炭を大量に採炭できるようになり、一躍、三井のドル箱になりました。巷では「あのヤマ(三池炭礦)を三井は少し高く買ったが、団さん付きと考えれば、安い買い物だった」と言われるほど、団の評価は高いものでした。団は工業化を嫌う益田と協調しつつ、鉱業・化学を中心に三井の工業化路線を推進しました。三井本家の当主・三井八郎右衛門高棟は団より1歳年上で、団に並々ならぬ信頼を寄せていたので、口うるさい分家を抑えて団を支援しました。ですが財閥批判の中、昭和7年(1932年)血盟団事件(2月から3月にかけて発生した連続テロ〜政治暗殺事件)の犠牲になりました。憶測は色々ありましたが、ここでは控えさせて頂きます。でも、とても残念な事でした。
団の死後、三井銀行筆頭常務・池田成彬が三井合名筆頭常務理事(事実上、三井財閥の総師)になりました。また、三井家当主は高棟が引退し、子の八郎右衛門高公が三井合名社長に就任しました。しかし、若い三井家当主では分家を抑えることが出来ず、池田は「三井合名では三井家対策に7〜8割の力を費やされ、本当の合名の仕事には2〜3割しかさけなかった」と述懐していました。池田は大磯に別邸を構え、現在滄浪閣の隣に現存している建物は、池田の建物でした。中條精一郎が設計し、彼は辰野金吾の弟子ですので、ジョサイヤ・コンドルの孫弟子になります。神奈川県の建築物100選に選ばれています。池田成彬は、慶応3年(1867年)米沢藩・江戸留守居役の子として生まれました。慶應義塾大学卒業後、ハーバード大学に留学します。帰国後、時事新報社に入社しましたが、薄給を不満に思い3週間で退社。同年、慶應義塾塾長の推薦で三井銀行に入行します。中上川彦次郎に気に入られその長女と結婚。団琢磨・池田成彬のお墓は護国寺にあります。では次回。(敬称略)
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