大磯歴史語り〈財閥編〉 第27回「三井八郎右衛門高棟【6】」文・武井久江
池田成彬は、大正8年(1919年)に三井銀行筆頭常務理事(三井銀行の事実上のトップ)に就任しました。昭和8年(1933年、この年に高棟・現役引退)、三井合名筆頭常務理事に就任した池田は、財閥批判をかわすため「財閥転向」を実行しました。池田は、三井一族を直系会社の役員から退任させ、そして財団法人三井報恩会を設立し、社会貢献に努めることを発表しました。この間にも、社会的に批判を受ける業種もあり、三井財閥への批判を和らげるために、池田は高すぎる役員報酬を引き下げたり、持ち株の公開、重役の70歳定年制などを実行し、昭和11年(1936年)に自ら定めた定年制に従って退職しました。昭和12年日銀総裁を務めた後、翌13年大蔵大臣兼商工大臣等を歴任することになります。
ここで、池田の大磯での活動や、関わりのあった人々のお話をして、次回から本来の三井八郎右衛門高棟について語ります。滄浪閣隣の建物は、大正6年に西園寺公望から買い取り、当時茅葺の隣荘(淘庵)は山手の池田農園敷地に移築されました。現存する建物は、昭和7年に竣工されましたので、来年で90年が経ちます。令和6年までには(明治記念大磯邸園の一部として)新しい利活用がされるようですので、楽しみです。池田農園は、西園寺邸を移築した後、大正11年に長男・成功(なりかつ)が戸越農園(三井財閥が海外からのお客様の接待のために世界から草花を集め栽培法を研究した農園)にいた五島八左衛門と出会って、この大磯の地でメロン・シクラメン・洋ランなど海外から種子を輸入し品種改良の交配などを行っていました。母(池田成彬の妻・艶)の名前を付けたラン「ツヤ・イケダ・コイソ」「ナリカツ・イケダ」等は有名です。ランに関わる図譜約500点、収集したラン類約200株は、生まれ故郷(成彬)の山形県に寄贈され、寄贈品は山形県立博物館に、栽培が必要なものは米沢市にあった白布温泉植物園から山形県立村山産業高等学校で管理されていました。大磯の文化村と呼ばれていた場所は、現在は住宅地となっています。池田は大臣などを歴任した後、戦時中は吉田茂・樺山愛助・原田熊雄などと、早期終戦工作(吉田戦争反対、別名・ヨハンセングループ)を行い、昭和25年三井財閥の仕事を最後に、83歳の生涯を終えました。彼の名を成彬(せいひん)と呼ぶ方もあるぐらい老年はつつましい暮らしでした。護国寺のお墓もとても質素な感じでした。ご冥福をお祈りします。では次回。(敬称略)
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