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大磯・二宮・中井 コラム

公開日:2022.03.11

大磯歴史語り〈財閥編〉
第37回「安田善次郎【5】」文・武井久江

  • 故郷に寄付を続けていた時に作られた菩提寺の献燈

 奉公先「広林」の、両替の仕事は辛かった。お金は紙幣ではなく金・銀・銅貨幣なので、重い。これを大八車に積んで取引先を回るのです。しかし同時に、この奉公先で古い金銀や贋金の見分け方が取得できました。彼は、辛さの裏側にあるものを見つける能力が長けていると思います。だから、努力が苦にならない人なのです。この仕事に必要な能力は、古い大判や小判、新しい金銀貨、二朱金、一分銀などの鑑定です。これは大変難しく、普通は貴金属片を擦って条痕の色など品位を判定します。試金石と呼ばれる石が用いられますが、実際は肉眼で即座に鑑定できなくては役に立ちません。この点に関して彼は抜群に熟達していたので、店では大変重宝がられました。この能力は、独立後も大いに役に立ちました。



 江戸へ出て約5年の奉公時代が過ぎた頃、いつまでも奉公しているのは、はなはだ意気地がない、と独立して商売をする決心をします。文久3年(1863)12月1日、葺屋町(現・日本橋堀留町の一部)で露店両替商を3ヶ月、これが上手くいったので次のステップです。この時代はまだ普通の青年の時があったのですね。お酒もタバコも好きだった時があったと、今回知ってびっくりしました。彼は、独立の目標をたててから「万事倹約を旨とすべし」で、禁煙から始めました。当時持っていた煙草入れ4〜5個が不要になり、開港から5年ほどたっていた横浜に行き、外国商館に売りつけて25両(今のお金で250万円)になりましたが、まだ店を出すには足りない。ところが横浜にいる間に、するめの売り物がある事を聞き、25両でするめを全部買い付けました、倍船です。彼の予想は当たりました。これが42両で売れました。「一息に17両という金を儲けたのです。あの時の嬉しさは、今も忘れない」と、この時の事をよく回想しています。これを元手に、元治元年(1864)3月2日。砂糖・海苔・鰹節の小売りと両替とを兼業する店で、屋号を「安田屋」とつけ、この時自分の名前も安田屋の世襲の名前である「善次郎」に改めました。目標は、この店で成功し「1千両の分限者」になる事です。そのために善次郎は三つの誓いを自らに課しました。1.独力独行で世を渡る。女遊びをせず一生懸命に働く。2.噓を言わず、正直に道を踏む。どんな誘惑があっても決して横道に逸れない。3.生活費は収入の八割以内にし、二割は貯金する、住居のために財産の一割以上の支出はしない。〜もしこれを破ったら、「天罰を与えて欲しい」。ここから一気に登ります。(敬称略)

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