大磯歴史語り〈財閥編〉 第44回「安田善次郎【12】」文・武井久江
そろそろ善次郎公の終焉・卒業に向かったお話に入らなければいけないかなと考えますが、余りにもまだまだ凄いお話があり、後2〜3回お付き合いして下さい。年代が少しばらつきますがどんどん語らせて下さい。例えば、明治11年に東京府会議員、明治22年には東京市会議員に、それぞれ立候補することなく高額納税者であるということで選出されていますが、彼は政治家になろうと思ったことは一度もありませんでした。ところがその後も続々と選挙の話が出ます。明治25年(1892)1月、国会議員候補として推挙したい、ぜひ出馬して欲しい、善次郎は即座に断りましたが根負けして選挙に立ちました。しかし次点に終わったので、これでもう諦めるだろうと思っていましたが、また次の選挙の話が来たため、善次郎公は関西方面への視察を兼ねて旅に出ます。もうほとぼりが冷めて大丈夫だろうと帰京すると、帰京を待っていた人々が押し寄せるので、また旅に出る。そんな繰り返しから、彼も反撃に出ます。彼が推薦した別の候補を応援することで、この候補が当選し、一件落着と思いきや、また別の話が起きました。その時は旅に出ている間に、勝手に安田善次郎選挙事務所を起ち上げられてしまい、さらに本人不在のまま当選してしまいました。旅先に「キミ トウセンシタ スグカエレ」の電報が届き、仕方なく戻りますが、翌日から関係各省を回って辞退を告げた事から、二度と善次郎擁立の話は無くなりました。
そんな時期、わが国は日清戦争に突入します。明治27年7月25日豊島沖(ほうとうおき)海戦で戦闘が開始され、8月1日の宣戦布告で正式に戦いの火ぶたが切られました。開戦に伴い戦費調達が急務になり、渋沢栄一(大磯・禱龍館の会員)・中上川彦次郎(大磯に別荘収得)・大手行首脳とともに安田善次郎にも呼び出しがかかり、第1回・第2回と国債が販売されました。彼は日本人の愛国心を信じてもいましたが、明治維新以降、欧米列強に伍していきたいと必死で頑張ってきて、今かつての大国・清と国家の存亡を賭けて戦う時に、国民が助けてくれるはずだ、しかし国が儲けるようなことはするな。結果、彼は2千3百万円を引き受けます。我利ばかりの金の亡者と陰口をたたかれる事もありました。太政官札の時同様、国家の苦しい時には彼が裏で支えていたのに。まさに「陰徳の人」なのに。少しでも、もう少し表に出ていてくれたら、後に刺客に合うことはなかったのにと、今から悔しいです。まだまだ彼の偉業は続きます。(敬称略)
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